ツノを生やしたカナブンの幼虫。
別にブログを辞めたわけではない。
どういうわけか、ブログを書くことに時間を割くことができていない。
私の胸に宿る感覚をうまく表現しようとしたならば
罪悪感という言葉がとても相応しい。
それらの感情はどこから湧き起こるのか。
こんなことを考えているのは、私のいわゆる自惚れ等といった類のものではないのだ。
私が切り盛りしているブログでは日々アクセス数を数値として視覚的に認識することが可能である。
出来損ないである私は実に1ヶ月もの間ブログをサボっていたというにも関わらず、日々ブログへのアクセスは途絶えたことがなかった。
なんだかとっても温かい。
涙が出そうなほどに温かい。
私は今胸に温かさを宿している。
この機能といえば人間として生きるには必須である考えているのだが、どうだろうか。
さて、
読者の皆様がこの記事が好きだ。これは誠いいものであった。といった形で講評してもらうことがあるのだが、実は私の書いた記事への評価は読者の皆さまの好みが顕著に現れるということがわかっている。
私が書く記事において、おそらくこの記事はとても人気がある。エレファントマンドリルといえばこの記事。
そのような確信がもてる作品がないということは逆にいいのかもしれない。
毎度のクオリティがある一定の水準を満たし続けていなければこのような事象は起こり得ないと考えるからだ。
一体誰が何のためにこのブログにアクセスしているのだろうか。
こんなものが人様の行に影響を与えることもあるというのだろうか。
私がブログを書くことに躊躇する際に宿る心理がある。
ネタがないから書かないのではないのだ。
決して虚勢などではない。
むしろその逆のようなものであり、つまりは書きたいネタが多すぎるためにいざ書こうとなると思考がまとまらなかったり、何か大きな、木で言うところのいわゆる幹の部分が細く、誠細くなり大量の枝葉を支えきれなくなってしまうのではないかと、そのような感覚、不安のようなものに苛まれるのである。
わかるだろうか。
この気持ち。
カブトムシの幼虫はカブトムシになるまでの間ホカホカの土の中で、食って寝てを繰り返しながら時を謳歌する。
私もカブトムシの幼虫になりたかったりもするのだか、よく考えてみたら、既にカブトムシの幼虫の様に生きてきたような気もする。
同じ幼虫でも、青虫、芋虫とよばれる幼虫は地上で何やら活発に衣食住を行っているようだが、
みていてとても気持ち悪い。
成虫もガか蝶でありやはり気持ちわるい。
やはり同じ幼虫ならば、土の中でゆったりと過ごしたあとにカブトムシという虫界隈におけるそこそこなヒエラルキーをもってして成虫期を過ごしたいと思うではないか。
しかし昨今こんな話を友人から聞いた。
小さい頃にやたらと動きの活発なカブトムシの幼虫を見つけたため、いやはやこいつの将来は誠有望であろう。そう踏んで特別扱いし、手塩にかけて育ててみたのだと。
しかし実は育てていた幼虫はカブトムシの幼虫ではなくカナブンの幼虫であったため、羽化したのはカナブンだったのだと。
私はおそらくこの話のカナブンのような人間なのだろう。
別にカナブンのことを悪く言うつもりはない。
しかしカナブンは何が覆ろうとカブトムシではないのだ。
子供達はカナブンを捕まえに行くことはないし、カナブン同士を戦わせてみたりもしない。カナブンをモチーフにしたカードゲームも多分ない。
ややこしいのはさらにここからで、
カナブンにも金色や虹色に光る個体や
カブトムシの様な角を保有する個体がいるのだ。
カブトムシというものがありながらカナブンの界隈ではさらに優劣がついているように思わざるをえない。
万物の共通認識であろうか。
やはりもう少しブログを書くことに真剣になった方がいいと思う。
ちなみに国語の教科書に載っていた「少年の日の思い出」は、主人公がエーミールという少年が持っているデカい蛾の標本が欲しすぎるあまり、友人の蛾をパクったという話だった気がする。
この世には蛾を標本にしてコレクションにするような民もいるようなのだ。
どうでもいいことだが、私はカブトムシでもカナブンでも蛾でもエーミールでも、
おそらくいい奴が好きだ。
いいカナブンになりな。
皆様頑張りましょう。
アデュ
あつまれどうぶつの檻。
白い壁、本当は蛍光灯の影響で少し黄色がかっているような壁、そんな壁を眺めながら何を書こうか考えている。末端冷え性で足が壊死しそうではあるのだけれども。
一つ不思議に思うことがあるのだが書くべきか否か、わからない。が書くことにする。
これは読者の皆様に対する冒涜なのではないだろうか。
そう、考えたことをいざ文章に起こそうとしたその刹那、何を書きたかったのかわからなくなるのだ。たぶんこれはその類の病気である。
ドラ息子、
ドラ孫、
ドラひ孫、今は亡き爺ちゃん。こんなドラ孫を見たら泣くのではなかろうか。そう思う。
いやはや、そんなことを考えていたら、これほどまでに投稿頻度が低下してしまうわけなのだ。どうしょうもなかろうよ。
誰でもいいから、ここへやってきて尻をぶっ叩いてくれはしないかね?賃金も出そう。
愛情も注ごう。
つぶらな瞳で見上げてあげてもいい。
誰かけつをぶっ叩いてくれ。
これはまさしく本田圭佑が頭両サイド刈り上げるときに使ったバリカンに付着した細かな金の毛髪のようなひと時である。
そういえば既に私が出生し22年の月日が流れたそうな。
あと数ヶ月もすれば23年もの間我が身の細胞を保存し続けたことになる。
多くの人間がこれを成し遂げているが、
しかしまあ、これは誠に偉大なことなのだ。
人は出生し23年が経とうとも、極めて不完全なままなのである。時よりそのような確固たる実感を抱くことがある。
しかしながらというか、
やはりというべきか、
人間は少年を忘れてはいけないのだろう。
いや、そうではなかろうか。
保育園に私を迎えに来た爺ちゃんのカツラを見た友人に対して
あれは、毛髪ではなく毛でできた帽子である。と教授し
爺ちゃんにトイレに1時間閉じ込められた記憶を忘れてはいけない。
「100回謝まりなさい」
と言われ、トイレの中で本当に100かいごめんなさいと謝った5歳の記憶を。
共同を教わった。
5歳のクリスマス当日。
枕元に置いてあるプレゼントに歓喜する私。
サンタさん来た!うれしい!
など知識と教養のないできの悪い子であった私はそのような戯言ことを爺ちゃんの前で豪語してしまったのだ。
なんとも人間味があり、誠優れた爺ちゃんは愛する孫がサンタなどと言う架空のキャラクターに信仰を抱いてしまったこを哀れんだのか、はたまた嫉妬を抱いたのか、今となってはわからないが
"サンタさんはじいちゃんや"
5歳である私に爺ちゃんはそう言ったのである。
サンタさんはじいちゃんや
じいちゃんはサンタさんなんや
爺ちゃんがサンタなのか。
正味5歳でサンタという概念に理解を示した子共は世界でもほんの一握りでろう。
小学校一年生なんかみんなサンタを信じいているものだ。じいちゃんがサンタだみたいなことをいっている小一はいじめられてもおかしくない。
そこからというもの私の人生は変わったしまったように思える。
道徳を教わった。
忘れてはいけない。
家から脱走し、その後隣家で保護され帰還した、家で飼育していたミドリ亀の甲羅の端にキリで穴を開け、
ナイロン製の紐を穴に結び、まるでイヌが散歩に行く時付けるリードのように、庭のデッキの柱に亀をくくりつけていたあの爺ちゃんの姿を。
適応を教わった。
さて、そろそろ時間である。
周囲に意識を向けると、なんだか皆頑張っているような気がしてくる。
そして4月末にしては少し寒すぎやしないか?
皆のことを応援しているし、私もうかうかはしていられない。
どうぶつを檻に閉じ込めてはいけない。
あとは熱盛りスイッチ調達を吟味するだけである。
どうぶつの檻
アデュ
クリティカルグリンピース。
例えばあなた方はグリンピースのことはグリンピースと言えばわかるであろう。
これはグリンピースだ。というふうに言葉を習ったのだろうが、ともかくグリンピースといえばわかるだろう。
グリンピースというものが分かるということは、グリンピースに親近感ができる事だと言い直してもいい。
ひとたびグリンピースというものがわかったのならば、グリンピースの絵をみて、これは実によく描けているとか、これは下手だとか、そんな事を言う。
それから色々な例えにグリンピースを使う。
グリンピースというものの内容がよくわかっている証拠である。
こういうときグリンピースの心がわかっているというのだ。
それはこんなものだと教えてもらったわけではないだろう。だいたいこれくらいがグリンピースというのだということは習ったのだろうけども、グリンピースというものの内容は教えられて分かったのではない。
はじめから教えられなくても心には心がわかるのだろう。
人は何も知らない。という事を見てきた。
何も知らないのによく生きているものだ、1日1日を暮らせるものだと思う。
よく調べたら人は"情"の中で生きているらしい。何も知らなくても嬉しい時は嬉しいし、悲しい時は悲しい。
"情"が健全であればこのように無知であっても人生を送ることに差し支えないのだ。
私は先天的な体質によりグリンピースを摂取することがままならない。
ピラフの中に散々しているグリンピースをスプーンを器用に使って全て取り除き、皿の隅っこに積み上げない限りピラフという料理を堪能する事ができなかったりもする。
そういった弊害がある。
加え私が友人に肩代わりしてもって、食わせたグリンピースの数量は膨大である。偉大な大数学者が特別な理論や計算式を用いて思考しようとも、その数は計り知れないものであろう。
そういった弊害もある。
グリンピースを食べれない人は人間失格である。人権などはない。
グリンピースを皿の隅に並べて食べない男性と食事をしたら引きます。
とそういう考えを持つ人がいるらしい。
以下はその理由等である。
・チマチマとした動作がきもちわるい
・避けることに集中して会話が適当そう
・避ける人には余裕がなく、わがままである事を連想する
・残すのは行儀が悪いと教わって育った
・避ける人は生活全般にケチをつけていそう
・残すのは子供
・神経質に避けているのが見ていてイラつく
・グリンピースを愛せないようなものが私を愛してくれるはずがない
・グリンピースは神に仕えているため尊い存在である
・グリンピースは世界の始まりである
これらは"情"とは何も関係のない後天的に芽生える"知"や"意志"によるものである。
人は"情"の中で生きている。
赤子として母の腹から生まれた刹那、
我々は誰から習ったわけでもなく産声を上げていたではないか。
あれはまさしく"情"なのだ。
グリンピースを食べると吐き気を催すことだってある。
何故かはわからない。
だがそれは、グリンピースを食べると吐き気を催すべきだという、"知"でも"意志"でもない。
人間は何もわかっていない。ただ私はわかっていないことをわかっている。
直径6mm程度の緑色の球体を体内に取り込もうとする意志。体が受け付けないという情。理解不能なプロセス。
"情"とは絶対的な宇宙なのだ。
この際せっかくなので最後に私がグリンピースについて感じている後天的な"知"いわばグリンピースを嫌いな理由を以下に示そう。
・しゅうまいの上に一粒だけ乗っかっている
・料理にふさわしいオーラを全く発していない
・匂いと味と食感がやばい
・食べた瞬間ヒラメ筋肉あたりに鳥肌が立ち吐き気を催す
・小粒で鮮やかな緑色であるため料理に少しそえるだけですごく見栄えが良くならない
・炊飯時にお米と一緒にグリンピースも入れて炊く→ご飯全体に豆の風味がいきわたり大きなお世話である
・枝豆という存在があるのだからあなたがしゃしゃり出てくる必要はない
・やはり全体的に主張が激しい
・やはり存在意義がわからない
・やはり調子に乗っている
・貞操観念がない
・昔クラスにいたいたいじめっ子にそっくりである
・思いやりがない
・私服がダサい
・女好きで浮気性
・金遣いがあらい
・DV気質がある
・人の話を全く聞かない
私の印象ではすべてにおいて非常に大きな試練であった。
私はそれを食べたくなれば食べてよいのであって、食べなければいけないということは少しもない。
これは非常に大切な点である。
そこらでは旨いコーヒーを飲ませる店があるし、そこには顔つきや姿勢から、前向きに(過去を背負い、現在を踏まえ、見えない未来に面して立つこと)、時と場所を忘れて熱心に話し合っている人々がいるし、コーヒー店を出れば街ではどこからかヒットチャートの音楽が流れてくるわけである。
昨今は夕日がよく綺麗である。
この原因を模索することなどは決して得策ではないだろう。そうではないだろうか。
人には何もわからないのだ。
"情"で世界を捉えてみるがよい。
こんなにも夕日は美しい。
グリンピースを食べる必要などどこにあろうか?
食べる必要などないのである。
アデュ
三四郎小宮を称賛する文書の正しい書き方。
皆もよくある事だとは思うのだが春先になると三四郎小宮についつの記事を唐突に書きたくなる。
私は三四郎小宮のファンである。
ファンの定義はよくわからないが、ファンである。彼がでている動画を一昔前に流行ったclipboxというアプリににダウンロードしていたりもする。
彼は出川や狩野栄光などと一緒くたにされポンコツ天才芸人扱われているが、私はそれは間違っていると言いたい。そんな気がする。
出川や狩野栄光とは違い、
彼の作り出す笑いには、何か。
思索することでしか得られようのない、いわば必死に掴み取ったようななにかを感じられるからである。よく考えこまれているのだ。
彼は天才ではなく、努力の人だとなんかの記事で読んだ記憶がある。
私から見れば当たり前の笑い、どちらかというと不可のない及第点のような笑いをコンスタントに叩き出すことに長け、そこに浸かりつづけているような大御所芸人よりも、彼の作り出す笑いのほうが遥か自身の情緒を刺激されることが多いように思える。
私は笑いにはストイックであると自負がある。いや、漫才を研究したりはしていないし、あくまでも笑いに妥協がないという意味で。自分のことは棚にあげているわけだが。それはあまり気にしなくていい。あくまでも外界から降り注ぐ笑いの話である。
面白くない事象に目を向けたり、それに対しいわゆる愛想笑いを振りまくことなどは疲れるし、やはり無駄なことのように思える。これは世の常識ではないだろうか。
80年くらいしか生きないのだから、それらを構成する時間は有用で特別なものでなければならないと考えている。
よりいい時を過ごし、人生のいわゆるおもろい時間の比率を増やしていくことが重要なのだろう。
しかしそれらを実現するにはやはり、精査することが必要なのだ。
つまり面白くないものは受け付けない、つまらぬ事象と化す前の段階でその芽を積みとらねばならない。
そういった能力を習得しなければならないのだ。そう思う。
なんだか今日はいつにも増して偉そうな口調である。だが許してほしい。
話を戻すが、小宮がすごい。
いや小宮さんがすごい。
そもそも彼の思想は閉じた体系を作ることを目指していない。未定義のままでも実感に裏打ちされた言葉を繰り返し使用していく。
彼の作る漫才のツッコミには以下のようなものがある。
・俺はヒカキンじゃねえよ、しらけるわぁ
・怒られた時の体が硬い、柔らかくあれ
・バチボコ(過多・過大・打ち消しの推量などを表現した言葉)
・うるせえたわけ
・鼻爆発して死ね
・ジャガイモ芸人が美学こいてんじゃねえ
・五臓六腑を蝕まれろ
・アル中であれ
彼は自分が松本人志よりも優れている部分があるとすれば、それは品性だと言っていた。
オーソドックスな流れには沿っているものの、やはりそういった自負が鼻につかないほどには、彼の作りだすネタやワードセンスには、品性や言葉を超えた芸術性のような物を感じられる。
〜であれ。
これに関してはボケ、ツッコミというお笑いの根底にある概念をも覆し兼ねない、いわば大発明なのではないかとすら感じている。
これからも私の人生の時間を良きものにしてほしい。期待している。
ただ小宮を褒めた記事であった。
こんなのを最後まで読みきったしまった読者の方々への同情は計り知れない。
しかしながら、これを機に彼の作り出す世界を全身で思う存分味わってみてほしい。
そう思う。
明日はグリンピースの悪口をひたすらに書き綴ってみようと思う。
いままでで一番期待値の高い企画ではないだろうか。
在宅ワークのせいで視力が落ちた気がする。
アデュ
チェリーブロッサム。
最近頭悪いシーズンに突入した。
時が解決する問題だと思っている。そう信じたい。
桜が開花し始めたが私は桜が大好きだと思ったことがないし、桜が大好きだと言ったこともない。だからきっと大好きではないのだろう。
日本人としては桜が大好きだというべきなのだろうとは思っている。しかし桜はきっと桜のままなのだろう。そうも考えられる。
私はナスが大好きだ。
しかしナスが大好きだといい始めたのはつい最近の話だし、キングヌーも最近勢いに乗っている。私には中二のころ友人と教室の後ろの黒板に
ナスの触感がきらい!!
と差別的な落書きをして先生になぜこのようなことしたのかと激怒された経験がある。
ナスはおそらくナスのままなのだろうし、考えられるのは私自身が変わったのではないかということだ。人はナスや桜と違い変化している。地球上に最強の文明を築き上げた最強の生物なのだからそれくらいできて当然である。
桜は薄ピンク色である。いわゆるマジョリティのアンチを受け付けにくく、花として中立な立場をとっている。
長谷部もまた日本代表のキャプテンだった。
ブラジル代表のキャプテンはネイマールである。つまりそういうことなのである。
ネイマールは観客をぶんなぐってダニエウ・アウヴェスにその座を譲ることとなったわけだし、やはり中立的であることは重要なのだ。
端的に大古からこの国に潜在するジャパニーズスピリッツの的を射抜いている。そう思う。
桜は群生する。人間は群生したものが好きである。
星も、夜景も、キャビアも、マングローブの森も単品では人を引き付けることはできない。ちなみに寺田こ〇ろ君、彼は群生し損ねたのだ。人々は群生したこ〇ろ君を見たかったに決まっている。
そして桜は散る。いや桜が散ることはどうでもいい。人間はは散るものや消え去るものを詩的に表現したがるし、芸術的なニュアンスを添加することにはちょうどいい。
桜が一年中咲いていてもどこかうっとうしいし、散ってくれたことで助かっている人も多いと思う。
四季を象徴する自然現象でも、孵化したバッタを例にとるよりも散っている桜を例に挙げたほうが、かっこいい感じになる。
男を愛するよりも女を愛するほうが退屈ではなかった。
ある男性の哲学者がこんなことを言ったらしい。こんな風に当たり前のことを少しかっこつけて言うことで哲学者としての体裁を保っていたりもする。
あと桜は英語でチェリーブロッサムというらしい。ブロッサムとは木に咲く花のことを意味するらしいのだが、結構好きである。チェリーというのは気に食わない。
おそらく前記した理由などにより桜は大衆に好かれているのだと考察した。
私は桜を嫌いなわけでない。
桜の子房であるさくらんぼの、ンボという響きも好きだし、バラ科に属しているところも気に入っている。
そして桜のことが大好きな人も好きである。
ナス同様、私は桜のことを好きになろうと思い始めているのだ。いいや、なるべきなのだ。これは人間の進化の過程である。
ただグリンピースのことを好きになる気は全くない。
中2の時、教室の黒板に
グリンピースの存在が許せない!と落書きしておくべきだった。
アデゅる
反マー感マー。
世界的流行。
短パンでキック。
シャンパンで貢ぐ。
一般的なミルク。
4日ほど休暇をいただいておりました。
エレファントマンドリルの投稿を心の底、喉から毛が出るほど楽しみにしていた愛読家の皆様。心よりお詫び申し上げます。
人間であることの喜び
誇りと自信、謙虚さを持って邁進したい所存であります。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
はてさて、
ブログを書き始めたことにあたり、ブログという概念について多少、ぼんやりと、ちっぽけな脳味噌と頭蓋骨の衝突音を奏でながら考えていた。
私はブログを書いてみてはいるものの、これといってブログを読んだ経験はない。
とはいっても、ウンチクや知見などを書き綴ったようなサイトは必要に応じて見たことがある。
そうではなく、なんというか、私が書いているようなジャンルのもの。
私の書く物がどのようジャンルに属しているのかという明確な自覚はないのだけれども、
(そもそもブログを書くうえでの具体的なビジョンや大義を持ち合わせてはいない。)
少なからず、
"面白い" funny ないしinteresting 双面に付随させたもの、それらを読者に提供できる記事を書きたいとは考えているのだ。
学びが必要である。
私は安直である。
参考としてGoogle先生に、「本当に面白いブログ」などと打ち込んで検索をしてみました。
皆も調べてみるといい。
面白いブログ10選!!のような全く面白くないサイトがかなり出てきます。
私は安直であるため、その手の検索手法とその手のサイトを何度か拝見した経験がある。
しかしながら、いや当然のことのように、そのような安直な愚行により、面白い何かを発見できた試しがない。
なんとも普遍的な、大衆心理の平均点を具現化したようなレベルのものばかりなのである。
しかし私は安直である。
その手のサイトにて紹介されている、私なんかの何百倍も有名でいわば業界でトップとも言える方々のブログなるものを拝見させていただいた。
敬意を示すべきである。私の敬意を。
最大限の敬意を払い、小難しい表現や、揶揄った表現などを駆使しないことをここに誓う。
かなりつまらない。
まじで。
私は自身の立場も弁えず、凄まじく否定的な、
一見して愚からしい発言をしてしまっている。
しかしながら、本当につまらん。
まーじでつまらんのだ。アパァなのだ。
前記したサイトにてなんとも、大袈裟な、
〜のブログはとにかく文才に溢れて、その独特な表現やワードセンス。ついぷぷっと笑ってしまうこと間違いなし!みたいな冷蔵庫の裏の埃のような文章で紹介、持ち上げられてしまっていることなども原因なのだろう。
おそらく、天賦の才、そういったものを持ち合わせていながら、それらを弄んでいるようなお方などは、この巨大な情報社会という大樹のジメジメとした木陰に隠れてしまっているのだろう。
私はそのような人を何人も知っている。
本田圭佑の控えでベンチに座っているメッシ。
世界では端的にまさしくこのようことが常習的に起こっていると私は理解しているのだ。
私の親友は
その才能をもっと世間に知らしめるべきだなどと鼓舞してくれたりもしてくれる。正直に最高や。
井の中のミジンコは、そのような些細なひとことだけでも調子に乗り、なんとも無機質に履き違えたナルシズムを心に宿し、アメリカ大陸を蹴散らしているティラノサウルスや本田圭佑を倒しに行こう。
と
そう思うのである。
最近自身の調子をあまり把握、コントロールできていない。押され気味、伸び悩んでいる、そういったところか。
なので、今何を書こうと思い立って何を書いていたのかまるでわからない。
しかしながら視界は良好である。
皆さん、春ですね。
恋。
してますか。
今日はこの辺で。皆さまの最良の1週間となるようお祈り致します。
以上、アパァ
青の巨塔。
段ボール肉まんのような人生を送って参りました。
中学一年の一学期には委員会なるものの担当者を決める会合が開かれる。つまらん会合である。
学内の実績も他生徒の人格すら何一つ情報がない状態で誰が学級委員になるかを決議するわけだ、当然ニキビ面の青いキッズ達にとってそれは義務教育の無駄遣いであり生産性のかけらもない時間であったわけである。
「学級委員をやってくれないかしら。」
「あなたしかいないと思ったわ。」
ニキビ面キッズ12号の私に当時の担任がそう言いよって来たことはよく覚えている。
教員の方々の中ではおそらく、大方この会合が非合理的なものになるとは想定の範疇であり、そこで小6から中学に上がるタイミングの引き継ぎか何かで学級委員をやってもらいたい生徒に目星をつけているのだとか。
お母さん。あなたの息子はなんと学級委員に推薦されました。誇りに思ってください。
小学過程を終えるころ、私は学級委員を依頼されるほどには秀才であったということなのだろうか。そんなことはどうでもいいことだが、当時の私は放課後に郊外のサッカークラブに通う必要があったため、そのいわゆる学生会的なアレの会合には出席出来兼ねますけどもよろしいですか?
「それでも私はやってほしいわ。」
そういった流れ・条件のもとクラスの学級委員長を引き受けることにした。
私はやはり当然のことのように学生会的なアレの会合をさぼりまくっていたのだが、クラブが休みの日に一度出席してみた際には、
その頃学年全体で少年自然の家的なところへ合宿のようなものに行くことになっており、
その上で我々中学生はどのような目標を立てそれに臨むべきか?といったなにやら小難しいアジェンダで会合が進行していた。
意見を求められたので私は、
"あいさつをしよう"と答えた。
中学一年生が民泊を使用することにあたって、あいさつをすること以外に重要なことなどあるのだろうか??
そう思っていたのだが、私などとは全く違う、いわば比べ物にならないほど優秀で真面目である他クラスの学級委員長らに、
あいさつすることなどは至極当然である。
そんなことを目標にしてどうするのか?
などとぼこぼこのボッコボコにされるわけである。
なんと可哀想な私。
あいさつって大事なんだぜお前ら。
友達ができることだってあるんだぜ。
要するに会合をサボってサッカークラブなどに通っているマヌケは学生会というなんとも高尚な場に立ち合わせる資格などない。なんとはらだたしい。しゃべるんじゃない。といったなんとも迫害じみた扱いを受けたのである。
またその迫害に付随し、学生会を牛耳っている学年長(よくわからんがおそらく一番偉い.偉そう)であったKBT先生から目をつけられるようになり、なにかとつけては絡まれ続け、それはもはや学生会的なアレ以外の私生活にも介入してくるほどにねっとりと私と学生LIFEを侵食していったのである。
わけイキっても
わけイキっても
青いガキ
種田山頭火(自由律俳句)
中1の私はといえば思い返せば返すほどイキっていたのだ。
とにかくシャツを出しイキりたかった中一の夏。
シャツを出しても出してもなお出したりなかったあの夏。
学年集会。(1学年全員が体育館に集められ体育座りをするためのイベント)
あろうことかズボンの縁から一部シャツが出てしまっていた私にKBT先生が
おい。シャツ。
白々とした眼光でそう言った。
私の学校では夏服はシャツをズボンにinすることを校則で規定されている。
私はイキることに長けていたはいえ、教師に反抗するなどという非合理的な行いをするようなイキりはき違えた子供ではなかったため、無抵抗にシャツをしまいなおした。
するとKBT先生がなにやら私の前(この時学級委員長である私は列の最前で体育座りをしていた)へとのさのさと歩いてくるではないか。
顔も大きいしなんだかこわい。
KBT先生は
おい。立て。
白々とした眼光でそう言った。
彼は私に期待していたのだろうか?
静まりかえった体育館。
皆が注目する中1人立たされKBT先生にズボンを脱がされたあの夏。
パンツはギリギリ脱げていなかったけども。
右っ側の球が半分に割れるくらいのアゲパンをくらったあの夏。
僕は決して忘れない。
あの夏よりも怖いことなどないのだから。
ありがとうKBT先生。
立派な大人になりました。
その後中学生活で私のあだ名はアゲパン野郎にはならなかった。
いや、影で女子達にはそう呼ばれていたかもしれない。そんなことはどうでもいい。
あれは半ば強姦のそれだったのだ。
人はいつしか強くならねばならない。そう思う。
以上、中一の記憶である。
今宵もご精読ありがとございました。
さて、なんだか今日は暖かい。
皆様は元気でお過ごしでしょうか。
今日は同級生の専攻科過程の卒業式でしたね。
おめでとうございます。次はおそらく大学院生活が始まることとなるのでしょうが、引き続き楽しそうにお過ごしください。
皆様方のご検討お祈りしております。
アデュルバイジャン