ピッチャーライナーエディション。

 

面白くない人の特徴について。
 

 

 


長いこと生きて困ってしまうことといえば、感情の起伏に安定感が出てきてしまうことなどではないだろうか。
幼少期以上に面白さに飢えるようになってくる。
 
感染症対策に直向きに励んでおられる私においては、文字を書くことでしか人生を担保している風にはならないのである。
つまり暇すぎて話とか人間そのものが全く面白くない人の特徴について考え、書き綴ってみたくなったのである。
 
面白くない人の特徴ランキング1位
上からスクロールして読み進めるブログにおいて、ランキングを下位から書き綴ることだけは絶対に違うのだ。
絶対に1位から書いた方がいいのである。
 

 


1位 面白さに必要性を感じていない
 


ふざけたことを書いてみるかとも思ったが、圧倒的すぎてふざける余地も無くなってしまうほどに圧倒的すぎる特徴として君臨するのがこれ。
 
面白みとかいる? 
 
などと、面白い、面白くないなどの議論の余地をも与えてくれぬ、ユーモアという概念に核弾頭を打ち込まれた様な人である。これは致し方ないが、1位である。
面白いことなど全く重要だと思っていない様な面白くない態度なのであり、
 要するに面白さに対し全くストイックではないのだ。
 
人間は、学習し、筋トレし、成長し、ボディービルダーになるのだ。 
成長なくして人間は語れないという大前提は、無論ユーモアにおいても同様である。
ユーモアを磨かなくなった人間は、
それはもうポリエステルでできた手提げ袋かなんかである。
 
 

 


2位 安く肥大化しすぎたプライドのせいで金○マが小さい

 

 


 
これも一位同様に、ふざける余地はなく書かざるを得なかったものである。
1位については、今回のテーマを根底から崩壊させる無秩序な項目につき、いわゆる高校サッカー選手権青森県大会スーパーシード枠青森山田高校の様なある種チート的な場所に位置しているのに対し
2位からが、本質的に面白い人、面白くない人を測る指標となる項目なのであろう。
 
ただ、2位についても言わずもがな、満場一致なのではないだろうか。
プライドがあるということは素晴らしい。
とても高貴なことである。
あなたのプライドとても素敵だわ。などと愛を生むことだってあるだろう。
 
私が以前読んだ本にある一節。
ある有名な貴族出の政治家は、まことにイケゾンザイな口をきき、絶えず悪口をいう連中をそれはとても可愛がり、逆にお世辞を並べたり、自らを褒めたたえたりする連中らはたちまち嫌われてしまった。
要するに巨大なバックボーンをもち普段から褒め称えられ育った真に品位高き貴族は、お世辞などききあきているのだから、自分を蔑んだり本音ともとれる一言に新鮮さや面白さを感じるということだ。
 
私のいう2位のような人とは、正しくこの逆を突いてしまった人のことである。
端的に、プライドが安い割にデカい、
いわゆる段ボール肉まん人間なのである。


プライドには鋭さ、高い純度・濃度みたいなものが必要なのではないだろうか。
 本当に大切なプライドなんかは、30年に一回とか人間としての存続に関わる大事なタイミングまで取っときましょう。
 

 


プライドと金○マのデカさは反比例する。
 
 

 


私が思うにこの特徴を持つ人の98.6%はいわゆるいじられキャラの素質を持ち合わせている。
かつその方々は100%の確率で自分のことをいじられキャラではない。
むしろいじる側だろう私は?ほれ、ほれ?と感じなら生きているという事実は、NASAの公式Twitterでも公表されている。
 
彼らは理解できていない。
いじられキャラという立ち位置の、ポテンシャル、ギフテッド、天才といっても過言ではない
その優位性を。
 
いじられキャラになりたくてもなれず死んでいった人間が世界に何万人いるかをきっと知らないのだろう。
私にいわせれば、人類のなかで最強なのはいじられキャラなのである。
いじられキャラという立ち位置は基本的に人々を引き付け、愛されることでしか成立しない。人を引き付け愛されるということがどれほど人間関係をスムーズにするかなどいうことは説明するには至らない。
彼らは、アメリカの大統領だとか、とても大きい会社の社長だとか、世の成功者が何に差し置いてでも手に入れたい才能をすでに保有しているのにもかかわらず、それを捨てるのだ。
 
彼らが、デカい発砲スチロールの様なプライドといじられるということに対するネガティブな印象を手放すことができたのならば、もう誰も彼らに太刀打つことはできなくなるのだろう。

 

私は、いじられキャラなのに、自分はいじられキャラでは無いと思っているやつに面と向かっていじってやることが大好きである。

 

面白く無い人の特徴2位の彼らが最高に面白い人間になる瞬間のことを愛しているだ。

 

余談だが、上記した様な人間をいじるということに関しとても重要なのは、

本当の自尊心とかプライドだけは絶対に触らない様に、何をしてもどうでもいいという所だけ触ってあげられるかという微妙なテクニックを心得ているかということであろう。

学びのない幼き日の私はここの塩梅を間違え、何度かそれは球技大会とかでピッチャーライナーを狙われたりして、死にかけた経験がある。

 

少し喋りすぎてしまった。時を戻そう。

 

 

3位 ベタなことしか言わない

 

ベタなこと

つまりは、うむ、それは既に何度か耳にしたことがあるし、しかも二億年前ジュラ紀には既にティラノサウルス言っていたやつではないか。と勘繰ってしまうほどにありきたりな発言を

あたかも自身の哲学の様にドヤついた顔で話し続ける人のことである。

 

ベタなことを言っていい人間は希少である。

例えば、大谷翔平さんとかティラノサウルスとかが、僕はね。ゴミと一緒に運を拾ってるんだよ。えへへ。とか言う。

 

ゴミを拾った方が素敵だというのは幼稚園の時に教わったらから多分知っていたのだけれど、ゴミを払ったほうがいいと再度思わさてくれるほど偉大でありかっこよくてありがとう。

 

この様なものは偉大な方の言葉であり、偉大な方が言うことでしか意味を持たない言葉である。

大谷さんみたいになりたければゴミをまず拾えとか、大学生のサークルの会長とかが偉そうに言うのだけは絶対に違うのだ。

それだけは最悪なのである。

 

ベタなことしか言わない人というのは、まさしく、大谷翔平とかティラノサウルスとかジャスティンビーバーが言ったっぽいことを、飲み会とかほんわかした雰囲気の状況で37回くらい連発してそれも妙にかっこをつけながら言っている方々のことである。

要は言葉に重みだとか説得力みたいなのが無いのである。

 

1位から3位の中でもこの3位が私個人的に一番どうしょうもないパターンだと感じている。

 

デカいフォントの自己啓発本とかを目から血が出るみたいに読み込んでいる人が周りにいたら注意する必要がある。

  

 

 

 

 

4位 松本人志のすべらない話のネタを友達に再現して話すやつ

 

 

 

 

皆様方の周りにも

面白くない人は

意外と、稀に、割と、かなり、いたりすることだろう。

 

皆様が面白い人生を送れる様ご検討をお祈りいたします。

 

 

以上、精読ありがとうございました。

 

 

長くなってしまった。遺憾である。

個人的に傑作である。

 

 

 

次回、面白い人の特徴ランキング

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

現状と頑丈。

現状維持バイアスに陥っているとあまり良くないという話。

 

 

まさかの2連投に動揺する方も多いことだろう。また嬉しさのあまり、サブコロびんびんな方も少なくないことだろう。

 

つまりこれは、給食にグリンピースご飯が出たのに、夕飯もグリンピースご飯であった夜につけたテレビのメインMCが坂上忍だったようなものである。

 

現状を基準としてそこからの変化をすべて損失と考えてしまう心理作用のことを現状維持バイアスと言う。

 

現状から未経験のものへの変化を「安定の損失」と認識し、現在の状況に固執してしまうというものである。

ライフスタイルにおいて、自身と関連付く全ての事柄において、例えば普段使用している美容品や衣類、人間関係にいたるまで

可もなく不可もなく

なんとなく自身にフィットしているだ。

つまりこの現状こそがベストの選択だと感じ、

それらを変化させることで発生する損失やリスクといったものを回避したくなる性癖とかそんなもので、

新規開拓恐怖症といったところであろうか。

 

これにはよく知らないがプロスペクト理論の損失回避性というものが働いているらしい。

同じ額であっても、1万円を拾った際の幸福感より1万円を落とした時の絶望感のほうが大きいみたいな話である。

 

これらは人間の基本的な防衛本能として機能している以上、現状維持バイアスに陥ること自体は大した問題ではないが、地球上最強の生物として人間が君臨し、もはや天敵から身を守る必要のない現代においては、トカゲがやばい時にしっぽをちぎって逃亡するやつなどに比べると限りなく不必要なものであることには違いない。

 

べつに行きつけの美容院やラーメン屋に通うのをやめるべきだとか

今すぐTikTokerになれとかそういう話ではない。

 

もしあなたの父母らがケータイ会社の契約時に解約可能だからと言って設定された

耳糞の様なオプションをなんとなくそのままにしておいて、

おそらく無駄な費用を搾取され続けているだとか

iPhone27が発売されたのに、iPhone8を使い続けていたりだとか

それらは確実に現状維持バイアスの弊害であるといえるだろう。

ケータイ会社はまさしくこの心理作用をうまく取り入れて商売をしているのである。

 

 

そのような心理作用においてまずは

自分が保守的な考え方や判断をした際には、「現状を維持したいから」という理由が判断材料になっていないかを自問自答し、現状維持バイアスに気づけるようにすることこそ重要なのであろう。

 

 

と綴ってみたものの、個人の心理作用などどうでもいい話である。

 

問題は、身の回りに現状維持バイアスに陥った人間が多数いる場合、少なからず

自身の弊害となってしまうということだ。

 

 

現状維持バイアスはそこら中にはびこっていると感じ始める。

 

 

仕事とかプライベートとか、仕事とか、特に仕事とかは特にそうである。

 

他人の考えや性質を変えることは絶対にできない。加齢臭とかもそうである。

そのうえで、他人の弊害となりかねない厄介な性質に気づいてしまった場合、実際に弊害となる場合、さらにそのような人材が多数派となる場合、そこを地獄と呼んでもいいだろう。

そう地獄なのだ。

 

 

人間は地獄に生きているのだ。

どこかの小説家はこんな事を言っていてもおかしくないのではないか。

 

 

 

つまりは、対処法など存在しないのである。

 

現状維持バイアスに極度に陥った、おっさんなんかを見つけ、あなたが現状打破を懇願し何かしらの行動を取ろうにも、あなたの今日の晩御飯はグリーンピースご飯なのである。

 

 

ただひとつ、これについて革命的なアドバイスを書き綴れと脅されたのであれば、綴ろうではないか。

 

現状にしがみつく中年男性、

モラルのない女子大生とか、

脱税するYouTuberとか、

 

あなたがもしその様なセンスを感じられない者たちに、あなたの大事な時間と労力を割かれ困惑しているのならば、

 

 

あなたはひたすら、イノベーションに没頭し続けるべきなのだ。そしてセンスのいい同士を探し続ける。加齢臭に屈すべきではないのだ。

この方法しか無いのである。

貴方達はなんて時代の遅れた、古臭いカラーボックスの様な人間なのでしょう。みっともないわ。と心で呟く。

まさかとは思うが変革にびびって怖気付いてでもいるのですか?。と心で呟く。

心で呟きながら、私は貴方に失望しかけているのよと示唆するように蔑んだ眼差しで見つめてあげるのもいいだろう。

 

そして周囲がそう呟き始めたころ、あなたは勝者となり夜ご飯のスペアリブを頬張ることが出来るのだろう。 

そこは既に地獄ではない。

 

 

 

放置し続けるしかないのだ。今はただ、

いずれこの世界からガラパゴス携帯が消えゆくことのように、あなたの未来は明るい。

先進的であることは、非常に素晴らしいことなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に

知人がヤブ医者に当たったせいで歯の中が腐り抜歯するそうな。

あなた方がいくら秀才であり、世が発展し続けても歯だけはブラシと根性でしか守れない。

そんな気がする。

 

 

 

 

 

つくね、熱くね。

チーズが入っている気がし始めると良くないという話。

 

 

 

 

 

まず私が文字を綴っているということは、

今日の給食がグリーンピースご飯だと分かった1限目の授業の様なものである。

 

 

シュレティンガ-の猫の様な体験をした。

シュレティンが-の猫とは、1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた、猫を使った思考実験のことである。

長くなりすぎるので、これ以上シュレティンガ-の猫の内容には触れないが、そこそこ面白いので興味があれば調べてみるといい。

 

居酒屋で無駄にでかい(ど太い)、主観的な話ではあるが、それは明らかに私がこれまでに食べた一般的なつくね串を基準にした場合にでかすぎるつくねが出されたのである。

 

わたしは、ふと

 

 

ああ、このつくねの中にはチーズが入っているのだなと感じた。

 

 

 

私のセンスからすれば

チーズが入っていると思わずにはいられないほどでかいつくねだったのだから、

チーズが入っている気がしたのである。

むしろチーズが入っていないのであれば一体なぜこんなにもど太くする理由があるのだろうかと。

 

 

 

とはいえ結果的につくねの中にチーズは入っていなかった。

 

 

ただでかいだけのつくね串であった。

 

 

 

私はその事実に非常に動揺し、その様子を誰かに見られたりしたのではないのか、

この一連の心理模様を誰かに悟られてしまったのではないかと恐怖を感じ、

回りを見渡すことすらできなかった。

 

 

 

私の斜め前に座って楽しそうに食事している同僚も、

おや、こいつはおそらくたった今、

このど太いつくねの中にはチーズが入っていると思っていたのだろう。

そうに違いない、そしてそれは誠センスの無いものであり、結果中にチーズ等入ってはいなかった。

くっくっく。この助平な阿呆め。

などと思ったに違いない。きっとそうである。

なんと恐ろしいことだろうか。

 

 

わたしの口につくね串が入る刹那まで、つくねの中にチーズが存在するか否かを証明する術はない。つくねを焼いた居酒屋のおっさんにだってそれらを証明することはできないのだ。

 

そのような意味でこれはシュレティンガーの猫なのである。

 

いやいや、いくらど太いつくねだろうが、はなくからチーズなんてものは入っていないのだよ、などと思っていばいれいではないか。と思う方もいるだろう。

 

が、これはそんな生易しい話ではないのだ。

 

認識を無かったことにすることはできない。

象さんのことを考えるなと言われて、象さんのことを考えない人間はいない。(映画インセプションより)

 

 

私は今後、つくねを食べる度この恐怖と対峙する必要がでてきてしまったのだ。

 

ああ、このつくねにはチーズが入っているかもしれない。

いや、そうではないかもしれない。

 

一連の心理模様を他人に悟られてはならない。

これほど羞恥的で恐ろしい事はないのである。

 

平然と、ただつくね串を味わっている女子大生とか橋本環奈とかおっさんとか堺雅人の様な表情と感情を再現する必要がある。とても恐ろしい現実である。

 

私の執筆した記事に愛情を感じていたり、わざわざ読みに足を運んでくれた方々についても、この記事を読んでしまった以上同様の恐怖に見舞われるに違いない。

巻き込んでしまい大変遺憾である。許してほしい。

 

 

 

 

でかいつくね、

チーズ入っとけよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうでもいいが、

つくね串にはウズラの卵黄を付け合わせだほうが良いのではないだろうか。

その方が精神的にいいに決まっているのだ。

 

 

 

鼻孔と備荒。

 

鼻の穴を人に向けるとよくないという話。

 

 

 

私は、とことんといって

特別な理論、哲学、人の内に秘めたる武器の様な思想においてはひたすらに隠さなければならない、隠すべきなのだと思っているわけだけれども

今回は長期に亘り執筆を行わなかったという贖罪として、一つ私が特に大切にしてきた、特別な思想を述べてもいいと考えているのだ。

 

書店で1780円税で売られている、角で人を殴りつけるために創作されたと思われる啓発本

などにある一説の様なものではない。

啓発本の一説様なものとは、たとえば、一億円の資産形成を成したければ他人より朝一時間早起きべきだとデカめのフォントで表紙に書き綴った様な硬くてデカいあれのとこである。

 

 

 

鼻の穴を人に向けるべきではないのだ。

 

 

 

鼻の穴を人に向けていると、鼻の穴を下から突き上げられたり鼻の穴にこっこりと入られたりと困った事態に陥ることが多いのであるまったくもって。

簡潔に述べると、鼻の穴を人に向けている奴は簡単に舐められたり、漬け込まれたりするという意味なのだけれども。

 

 

 

足元を見られる

足をすくわれるといった諺があり、

弱みに漬け込む。搾取されるなどという意味では、すでに先人らにより歌われてるではないかと批判を喰らいそうではあるのは理解できる。

 

 

 

これはまさしくそんな話であると断言できよう。

 

 

 

ただ、鼻の穴を人に向けてはならないと私が解いていることについては、抽象的なそれらに対しより具体的で現実味のある話であるということではあるのだ。

 

 

 

私の7割の感覚と、2.5割の偏見、

0.5割の揶揄をもってして人々を見てみれば、 

 

 

 

それは優秀であったり、ある人に言わせればかっこよく、世を馳せるタイプの人間とは、いずれも皆、

 

 

 

ちゃんと鼻の穴を隠しきっているのは間違いないのだ。

 

 

 

 

逆に言えば、何か情けなく、威厳というものを感じられない、ある人からはつまらない奴とかダサい奴だとかと言われる人間はとにかく鼻の穴をこれでもかと、何時だって人様に向かって曝け出しすぎてしまっていることは、24年も生きていれば当然のことの様に見えてくるものなのだ。

 

 

 

 

最近何故か調子がわるいんだ。

運がないんだわたしには。

バチボコ動揺している様なんだ。

 

 

 

その様なことを感じるときに、限りなく言えるのは、

 

恐らく貴方は鼻の穴を隠すことができてないのである。

 

この世のあらゆる悪意や欲望が貴方の鼻を突き上げているのだと言えよう。

 

人々、世界の前に黒々と露出してしまった二つの孔、ある種具現化された貴方の弱点を彼らが見逃すこはないのであろう。

 

 

もしもこの記事を講読した優秀な方々が

最近調子がわるいんだ。

運がないんだわたしには。

とくだらない悩みを感じているのならば、それは鼻の穴が人に向いてしまっているだけなのだから、まず鼻の穴人に向けるのはやめときましょうよ。

 

 

この重大な事実を、知らなければ高度な駆け引きができない。

 

 

有馬記念を羊とかラクダとかに跨って、走ることの様なものである。

 

 

 

私は、小学四年生のころには、鼻の穴の重要性について察知し始めることになるわけだが、その頃から鼻の穴だけは死守することに努めてきている。

 

 

これはまさしく、"鼻の穴攻防戦"  なのである。

 

 

 

確かに、ここまで読んでみても全く意味不明ではないかと、怒られてしまう可能性があることにも理解を示しているわけだから、少し分かりやすい例えのようなものを記すことにする。

 

 

 

本を読んでいる男性は、知的そうであるとか、

落ち着いてみえるだとか、挙げ句の果てに少しだけかっこよく見えるだとか耳にすることはあるのだが。

確かに、知識を蓄えることはすばらしく、知識を蓄えた人間ならではの良い雰囲気が存在することはわかる。

 

しかしながら私に言わせればこの事象こそ今回記した理論の真髄なのではないだろうか。

 

 

本を読んでいる際、少し俯いた顔の角度。

その角度こそ、絶妙に鼻の穴を隠しているのだ。

 

もはやただ物理的に鼻の穴を隠しているだけで、何物もつけ入る隙を与えないという風になっているのだ。

 

 

 

助平な奴が、助平なことを考えながら本を開きただ文字を追っているだけであっても

それこそ知的そうだとかなんだとか言われる可能性すらある。何故なら彼は助平であろうが鼻の穴をしっかりと隠し切っているのだから。

 

 

会社の幹部とか、何処かとても凄みのある人間と対峙した刹那、わかっていても不意に鼻の穴を突き上げられることがある。

 

 

誰であろうが鼻の穴だけは向けてはならない。 

 

 

鼻の穴攻防戦を制したものが絶対的に偉いのだ。

 

 

明日からというもの、最後まで精読いたただいた勇気ある方々の人生はきっと明るい。

 

 

鼻の穴を向けている人間等をみつけてはついつい、下から突き上げたりしてみるのもいい。

 

 

会社の役員と鼻の穴攻防戦を繰り広げるのもいいだろう。

 

 

 

 

 

 

鼻の穴を人に向けてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サラダチキンテロ。(腸炎と陽炎)

二年ぶりくらいに執筆活動を行なっている。

 

実を言うと

この数日間は家に引きこもり、

というよりかは便所に引きこもることで人生というものを担保している。

 


回りくどい言い方をしなければ、私は2日前から食あたりにより腹痛と高熱に魘されているである。

 

 

 

鶏肉を食す際には注意することがいつくかあるが、最もポピュラーなことは

カンピロバクター腸炎を引き起こさないようしっかりと加熱処理を行うことであろう。

 


そもそもカンピロバクター腸炎とは(以下引用)

一般的に家畜や野鳥、野生動物の消化管に存在しているカンピロバクター属の細菌が、食品や水などから人の消化管に感染し、下痢などを引き起こす病気。特に鶏の保菌率が高く、市販されている鶏肉が汚染されている確率はかなり高いといわれている。ほかの細菌と比べて少ない菌量の摂取で感染することが特徴である。飲食店などでの生肉の摂取による感染のほか、キャンプ場などでの野外活動で生焼けの鶏肉などを摂取することにより感染するケースも多い。

 


みたいなものである。

 

 

 

人間は性質として、ストレスがかからない事象や普段気にも留めない些細なことは当たり前のこととし、そのような事柄はずっと続かないわけがないと思い込むのだ。

27日連続で白米を食った翌日

28日目に食った白米は実はグリンピースであったはずがない。

こんな風に考えるは当然であろう。

でなければ人類は今頃考えすぎのストレスで絶滅しているはずである。

 

 

 

私は、先週から5.6日連続で鶏肉料理を食していたのだ。(鳥のレバ刺し食った記憶もある)

 

 

 

私は、二年に一度くらいの周期でカンピロバクター腸炎を発症しながら人生を歩んで来たが故に、カンピロバクター腸炎の経過においては人並みに詳しい自負があるのだ。

 


私の経験と感、センスに言わせれば病院などかからずともこの腹痛と発熱の原因はおそらくこの4、5日間で食した鶏肉が生焼けであったことであり、カンピロバクター菌に侵されていることだと簡単に推測できたのである。

 


だがまあ、このご時世この偉大なる我がセンスのみで片付く問題ではないことも我が偉大なるモラルにより察することができたため、受診できる病院を探すことに躊躇はなかった。

 


単純に気付きではあるが、このご時世発熱症状のある患者は受診を断られることが一般的らしく、我が偉大なる能力を持ってしても受診可能な病院はGoogle map先生に電話番号も載ってないような質素な病院しか詮索できなかったのである。

 


これは上記病院の女医おそらく委員長

CHANELのデカすぎるほどにデカいメガネをかけた厚化粧のば◯あ(以下CHANELババアと省略)の物語である。

 

 

 

CHANELババアは、発熱患者用隔離スペース

、病院の外に設置された薄暗い木の檻のようなものの中に、終日の下痢と発熱で疲弊しきっている私を10分ほど立たせたまま放置したのちに、問診と言い私の経過を聞くなり

食あたりの可能性はゼロです。とおっしゃられるわけである。

なんだか妙にエロを意識しているような口調である。 

 

 

 

八つ当たりのように本文を綴っているため恐縮ではあるがもう一声綴らせてもらうと、

アシストをやっている巨漢の看護師の応接態度が最低であった。

 

 

 

私のその道に勤めているわけではないので、もはや私に何かを言う術は持ち合わせてはいないが、

 


鶏肉。

 


食べまくった。

 


この事実からカンピロリンチョの名が上がってこない医師には当たったことがないがゆえ、どーしても、なにか、ほんのすこし、

ほんのすこしだけ、訝しく思ってしまうのである。

巨漢のアシスタントにカンピロバクタちゃんという鶏肉とは腐れ縁の菌がいてその潜伏期間は2〜7日程度であるという話をしても、

 

彼女は巨漢のままであった。

 

 

 

カンピロバクタちゃんのこと知らないなんて、古臭いんだから、まったくもう。

 


鳥の胸肉からつくったサラダチキン、

あれは筋トレやダイエットにはもってこいの食材なのだよ。

生焼けのを貴方にも食べさせてあげたいわ。

 


みたいな皮肉が言えたとしても彼女はきっと巨漢のままなのである。

 


内心を上記の様なマイルドな皮肉に変換するにも精神を酷使するのだから、誠巨漢だけは勘弁こうむりたいわけなのである。

 

 

 

結果、胃腸炎CHANELババア曰く腸の風邪であるとか。

 

 

 

結果、PCR検査を受けなければコロ助を完全に否定できないためPCR検査を受けるのだとか。

 

 

 

結果、陰性であったのだとか。

 

 

 

 

 

 

この話において、私がPCR検査を受けることになって若干焦ったことや、結果陰性で若干ほっとしたことなどはどうでもいいはなしなのである。

 

 

 

問診という診断法だけを駆使し

可能性というツールでことを察るのであれば

今回の件に関しては、

カンピロバクターによる可能性がその他にくらべ格段に高いという主張をしてもいいのではないだろうか。

私がゴールデンウィーク直前に腹を壊すような貧弱小僧であることを差し引いても、

CHANELババアがどでかいCHANELの眼鏡をかけれるほどには偉大な権威を築いてきたことを、差し引いても。

 

 

 

やはり一日中便所に入り浸るのは気の毒である。 

 


そしてrealな話を持ち出すと、このご時世にどんな原因であろうと発熱をするということは、肉体的な部分よりも社会的な部分で辛い思いをするということである。

私も便所にこもりつつ勤め先への周知連絡、報告書作成等本当に、息も便も詰まりそうであった。くだらないことを言いっている場合ではなく誠に

健康には留意すべきでなのである。

 

 

 

 

 

 

本日も一読のほどありがとうございました。

読者の皆様方の

ご健康とご多幸をお祈りしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとつ

教養も品性も愛も感じられなかった

世間で騒がれているいわゆる御局の雰囲気を体現したようなあの巨漢の看護師。

 

 

 

 

 

 

 


奴だけは総合的にまじでゆるさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アデュ

ハンターハンター続き気にしたら負け

私は天才が好きである

 


天才が好き。

というのは最も平凡な人間の特徴である。

 


天才には創造性

つまりアイディアが不可欠ではないだろうか。彼らは皆、何時も膨大なアイディアを所有している。

 


思い出そう。

 


天才と呼ばれる人間に触れる機会は幾度かあった。

私は特に凡人であるがゆえ、天才の素性について深く思考し、彼等から多くを学んだ経験がある。

 


天才は何を考えているかわからない。

という凡人の発言はよく耳にする。

 


しかしまああながちそうなのである。

 


しかしながらそれとは裏腹に彼等の行動というものだけに着目すれば、

彼等は非常に分かりやすいのだ。

凡人の思い描く理想をとてもわかりやすく丁寧に具現化してくれているのである。

そして凡人達のお手本となる。

 


凡人は彼等が創造するアイディアとその限りなく答えに近い表現を理解し模倣することで、

凡人は晴れて秀才と呼ばれるようになるのだ。

 


前述した、何を考えているかわからない

その思考の不明瞭さこそがこの話の肝であると思っている。

 


ー天才は生み出したアイディアを、露呈させていない。ー

天才はその生まれ持った才能をある刹那、ほんの少しの隙間からそれらを垣間見せるのだ。

 

秀才と対比させる文書を考えたが上手いこと書けない。

 


秀才とは、、たとえば

 


いっぱいに水の入った袋があり、袋の下にはミニトマトが植えてある。

秀才とはまさしく袋に穴をあけミニトマトにたっぷりと水をあげ、満たされてしまう人のことではないだろうか。

自らによって、自らの裁量によってミニトマトに水を与えることができる。

その才にうぬぼれてしまっているのではないだろうか。

 

 

 

はたからみれば袋のなかは空っぽなのだ。

 

 

 

天才とは、まさしく下にミニトマトが植えてあろうと、上目遣いの猫が泥まみれでそこにようと、決して袋に穴をあけたりしない。

 


人々は彼等の所有する袋の大きさを評価する。しまいにはその袋の中身が気になり出してしまう生き物なのだ。

まさにこのようなプロセスにして、天才は天才として君臨し、そこに秀才とこ差異が存在してしまうのだ。

 


ここいらで私のような凡人の方々に私のような凡人から些細なアドバイスをしよう。

 


〜脳ある鷹と思われたいならまず爪をかくしましょう。〜

(ジェルネイルの画像をインスタにアップする必要はない。なぜならあなたは優れている。人々はそんなあなたがどんなジェルネイルなのか気になって夜も眠れなくなってしまうほうがいいに決まっているのだ。)

 

相手に手の内を曝け出してはならない。

 

 

 

などと書きつつ、

本当に金持ちになっていいのは金持ちだけである。

バカが金持ちになるとよりバカに見える。

ビンボー人が金持ちになるとよりビンボーに見える。

白い壁を眺めながらふとそんなことを思い立ってしまう。

 


いかにも、あなたがもしこのブログを読み人間の情緒、性までをコントロールできるようになったのならあなたはもう立派な天才なのだろう。大いに期待している。

 


明日も上を向いてあるこう。

涙がこぼれないように。(著作権法違反)

 


何を書きたかったのかわからなくなってしまった。

冨樫先生は何を書きたいかわかったいるのだろうか。

 

 

 

長らくブログに手をつけていなかったためフリックスピードが遅くなっていた。

以上を歯切れの悪さの大義名分とする。

凡人の話であった。

 

愛する人へ。

 

 

アデュ

石の上にも雑念

こんなことを耳にする。

 

 

続けることに意味があるのだよ。

 

千歩の道もうんたらかんたら。

継続はうんたらかんたら。

石の上にもうんたらかんたら。

 

いずれも誰でも目標をもって続ければ成功する、夢を叶えることができる。

今はまだ結果が見えなくとも、努力が報われなくとも、頑張って継続していればいつか報われると言ったニュアンスを含むことわざである。

 

この手のことを真顔で言っていい人間は稀少である。

私はあまり目の当たりにしたことがない。

当然私のレベルでは。

やはり、これらの言葉の意味を理解し、体現している人はかっこいいのだ。  

私もそんなかっこいい人間になりたいものである。

 

 

 

我々は何のためにいきているのでしょうか。

何を成すべくして生まれてきたのでしょうか。

その様な疑問を抱くことは、人間として生まれたならば至極必然的である。

しかしながら。

 

 

わからない。

一向に。

ここには何もない気がする。

しかしそう一概にそうとも言えない気もするのだ。

この感覚こそが非常に厄介なのだ。

迷走の根源である。

 

一度深く息を吸い込み、目を凝らし部屋の壁を眺めなければいけない。

人はよく忘れてしまうのだ。

遠くばっかり見ていると、足元で腸洗浄をしているアライグマの尻尾を踏んでしまう様なことになってしまう。

 

 

 

幸せを定義付けてはいけない。

 

幸せの形式は目まぐるしい速度で変化する。

その変化こそを受け入れることこそが我々にとって必要不可欠なことなのだ。

変化する形式に適合し続けなければならない。そうしなければ、石の上に三年も座っていても自身の背後に壮大な景色が広がっている事に気づかない。

その気配すらを感じられなくなってしまうのだ。

 

我々は石の上で3年間妄想し続けるわけにはいかないのだ。

さぞ足が痺れることだろう。

 

石の上ではたらふくうまいもの食べなさい。

筋トレをし、歯を磨きなさい。

時が来れば旅行をしなさい。

愛すべき人に微笑みかけなさい。

 

ただ、こだわりなさい。

こだわりから焦点をずらしてはいけない。

全ての基準をそのこだわりに合わせなさい。

他の些細なことは私がなんとかするから。

 

 

明日もよろしく。

 

 

 

 

一貫してまとまりを求めてはいけない。

毎度のことだからもう言わなくてもいいだろう。私が白い壁を眺めながら思いついたことをタイピングしているだけのことなのだ。

 

おそらくby.ガンジーと後に続けばそれらしくなりそうなコンテンツも含んでいることだろう。

 

しかしあくまでも、

by.エレファントマンドリルなのだ。

これは変えようのない事実だ。

 

久々にブログを更新しても、少し辛気臭い雰囲気に読者の皆様も参っていることだろう。

心中お察しいたします。

 

 

今日はこの辺で。

 

アデュ