ツノを生やしたカナブンの幼虫。

別にブログを辞めたわけではない。

 


どういうわけか、ブログを書くことに時間を割くことができていない。

 


私の胸に宿る感覚をうまく表現しようとしたならば

罪悪感という言葉がとても相応しい。

 


それらの感情はどこから湧き起こるのか。

こんなことを考えているのは、私のいわゆる自惚れ等といった類のものではないのだ。

 


私が切り盛りしているブログでは日々アクセス数を数値として視覚的に認識することが可能である。

 


出来損ないである私は実に1ヶ月もの間ブログをサボっていたというにも関わらず、日々ブログへのアクセスは途絶えたことがなかった。

なんだかとっても温かい。

涙が出そうなほどに温かい。

私は今胸に温かさを宿している。

この機能といえば人間として生きるには必須である考えているのだが、どうだろうか。

 

 

 

さて、

読者の皆様がこの記事が好きだ。これは誠いいものであった。といった形で講評してもらうことがあるのだが、実は私の書いた記事への評価は読者の皆さまの好みが顕著に現れるということがわかっている。

 


私が書く記事において、おそらくこの記事はとても人気がある。エレファントマンドリルといえばこの記事。

そのような確信がもてる作品がないということは逆にいいのかもしれない。

毎度のクオリティがある一定の水準を満たし続けていなければこのような事象は起こり得ないと考えるからだ。

 

 

 

一体誰が何のためにこのブログにアクセスしているのだろうか。

 

 

 

こんなものが人様の行に影響を与えることもあるというのだろうか。 

 

 

 

 

私がブログを書くことに躊躇する際に宿る心理がある。

ネタがないから書かないのではないのだ。

決して虚勢などではない。

むしろその逆のようなものであり、つまりは書きたいネタが多すぎるためにいざ書こうとなると思考がまとまらなかったり、何か大きな、木で言うところのいわゆる幹の部分が細く、誠細くなり大量の枝葉を支えきれなくなってしまうのではないかと、そのような感覚、不安のようなものに苛まれるのである。

 


わかるだろうか。

この気持ち。

 

 

 

カブトムシの幼虫はカブトムシになるまでの間ホカホカの土の中で、食って寝てを繰り返しながら時を謳歌する。

私もカブトムシの幼虫になりたかったりもするのだか、よく考えてみたら、既にカブトムシの幼虫の様に生きてきたような気もする。

 

 

 

同じ幼虫でも、青虫、芋虫とよばれる幼虫は地上で何やら活発に衣食住を行っているようだが、

みていてとても気持ち悪い。

成虫もガか蝶でありやはり気持ちわるい。

 


やはり同じ幼虫ならば、土の中でゆったりと過ごしたあとにカブトムシという虫界隈におけるそこそこなヒエラルキーをもってして成虫期を過ごしたいと思うではないか。

 

 

 

しかし昨今こんな話を友人から聞いた。

 


小さい頃にやたらと動きの活発なカブトムシの幼虫を見つけたため、いやはやこいつの将来は誠有望であろう。そう踏んで特別扱いし、手塩にかけて育ててみたのだと。 

 


しかし実は育てていた幼虫はカブトムシの幼虫ではなくカナブンの幼虫であったため、羽化したのはカナブンだったのだと。

 

 

 

私はおそらくこの話のカナブンのような人間なのだろう。

別にカナブンのことを悪く言うつもりはない。

 


しかしカナブンは何が覆ろうとカブトムシではないのだ。

 

子供達はカナブンを捕まえに行くことはないし、カナブン同士を戦わせてみたりもしない。カナブンをモチーフにしたカードゲームも多分ない。   

 

 

 

ややこしいのはさらにここからで、

カナブンにも金色や虹色に光る個体や

カブトムシの様な角を保有する個体がいるのだ。

 


カブトムシというものがありながらカナブンの界隈ではさらに優劣がついているように思わざるをえない。

 

 

 

万物の共通認識であろうか。

 

 

 

やはりもう少しブログを書くことに真剣になった方がいいと思う。

 

 

 

ちなみに国語の教科書に載っていた「少年の日の思い出」は、主人公がエーミールという少年が持っているデカい蛾の標本が欲しすぎるあまり、友人の蛾をパクったという話だった気がする。

 


この世には蛾を標本にしてコレクションにするような民もいるようなのだ。

 

 

 

 


どうでもいいことだが、私はカブトムシでもカナブンでも蛾でもエーミールでも、

 

 

 

おそらくいい奴が好きだ。

いいカナブンになりな。

 

 

 

皆様頑張りましょう。

アデュ