クリティカルグリンピース。

例えばあなた方はグリンピースのことはグリンピースと言えばわかるであろう。

 


これはグリンピースだ。というふうに言葉を習ったのだろうが、ともかくグリンピースといえばわかるだろう。

 


グリンピースというものが分かるということは、グリンピースに親近感ができる事だと言い直してもいい。

 


ひとたびグリンピースというものがわかったのならば、グリンピースの絵をみて、これは実によく描けているとか、これは下手だとか、そんな事を言う。

 


それから色々な例えにグリンピースを使う。

グリンピースというものの内容がよくわかっている証拠である。

 


こういうときグリンピースの心がわかっているというのだ。

 


それはこんなものだと教えてもらったわけではないだろう。だいたいこれくらいがグリンピースというのだということは習ったのだろうけども、グリンピースというものの内容は教えられて分かったのではない。

 


はじめから教えられなくても心には心がわかるのだろう。

 

 

 

人は何も知らない。という事を見てきた。

何も知らないのによく生きているものだ、1日1日を暮らせるものだと思う。

よく調べたら人は"情"の中で生きているらしい。何も知らなくても嬉しい時は嬉しいし、悲しい時は悲しい。

"情"が健全であればこのように無知であっても人生を送ることに差し支えないのだ。

 

 

 

私は先天的な体質によりグリンピースを摂取することがままならない。

 


ピラフの中に散々しているグリンピースをスプーンを器用に使って全て取り除き、皿の隅っこに積み上げない限りピラフという料理を堪能する事ができなかったりもする。

そういった弊害がある。

加え私が友人に肩代わりしてもって、食わせたグリンピースの数量は膨大である。偉大な大数学者が特別な理論や計算式を用いて思考しようとも、その数は計り知れないものであろう。

そういった弊害もある。

 

 


グリンピースを食べれない人は人間失格である。人権などはない。

グリンピースを皿の隅に並べて食べない男性と食事をしたら引きます。

とそういう考えを持つ人がいるらしい。

 


以下はその理由等である。

・チマチマとした動作がきもちわるい

・避けることに集中して会話が適当そう

・避ける人には余裕がなく、わがままである事を連想する

・残すのは行儀が悪いと教わって育った

・避ける人は生活全般にケチをつけていそう

・残すのは子供

・神経質に避けているのが見ていてイラつく

・グリンピースを愛せないようなものが私を愛してくれるはずがない 

・グリンピースは神に仕えているため尊い存在である

・グリンピースは世界の始まりである

 

 

 

これらは"情"とは何も関係のない後天的に芽生える"知"や"意志"によるものである。

 


人は"情"の中で生きている。

赤子として母の腹から生まれた刹那、

我々は誰から習ったわけでもなく産声を上げていたではないか。

あれはまさしく"情"なのだ。

 


グリンピースを食べると吐き気を催すことだってある。

何故かはわからない。

だがそれは、グリンピースを食べると吐き気を催すべきだという、"知"でも"意志"でもない。

人間は何もわかっていない。ただ私はわかっていないことをわかっている。

 


直径6mm程度の緑色の球体を体内に取り込もうとする意志。体が受け付けないという情。理解不能なプロセス。

"情"とは絶対的な宇宙なのだ。

 

 

 

 


この際せっかくなので最後に私がグリンピースについて感じている後天的な"知"いわばグリンピースを嫌いな理由を以下に示そう。

 


・しゅうまいの上に一粒だけ乗っかっている

・料理にふさわしいオーラを全く発していない

・匂いと味と食感がやばい 

・食べた瞬間ヒラメ筋肉あたりに鳥肌が立ち吐き気を催す

・小粒で鮮やかな緑色であるため料理に少しそえるだけですごく見栄えが良くならない

・炊飯時にお米と一緒にグリンピースも入れて炊く→ご飯全体に豆の風味がいきわたり大きなお世話である

・枝豆という存在があるのだからあなたがしゃしゃり出てくる必要はない

・やはり全体的に主張が激しい 

・やはり存在意義がわからない

・やはり調子に乗っている 

貞操観念がない

・昔クラスにいたいたいじめっ子にそっくりである 

・思いやりがない

・私服がダサい

・女好きで浮気性

・金遣いがあらい

・DV気質がある

・人の話を全く聞かない

 

 

 

私の印象ではすべてにおいて非常に大きな試練であった。

私はそれを食べたくなれば食べてよいのであって、食べなければいけないということは少しもない。

これは非常に大切な点である。

 

 

 

そこらでは旨いコーヒーを飲ませる店があるし、そこには顔つきや姿勢から、前向きに(過去を背負い、現在を踏まえ、見えない未来に面して立つこと)、時と場所を忘れて熱心に話し合っている人々がいるし、コーヒー店を出れば街ではどこからかヒットチャートの音楽が流れてくるわけである。

 

 

 

 

 

昨今は夕日がよく綺麗である。

この原因を模索することなどは決して得策ではないだろう。そうではないだろうか。

人には何もわからないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


"情"で世界を捉えてみるがよい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなにも夕日は美しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グリンピースを食べる必要などどこにあろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


食べる必要などないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アデュ