あつまれどうぶつの檻。
白い壁、本当は蛍光灯の影響で少し黄色がかっているような壁、そんな壁を眺めながら何を書こうか考えている。末端冷え性で足が壊死しそうではあるのだけれども。
一つ不思議に思うことがあるのだが書くべきか否か、わからない。が書くことにする。
これは読者の皆様に対する冒涜なのではないだろうか。
そう、考えたことをいざ文章に起こそうとしたその刹那、何を書きたかったのかわからなくなるのだ。たぶんこれはその類の病気である。
ドラ息子、
ドラ孫、
ドラひ孫、今は亡き爺ちゃん。こんなドラ孫を見たら泣くのではなかろうか。そう思う。
いやはや、そんなことを考えていたら、これほどまでに投稿頻度が低下してしまうわけなのだ。どうしょうもなかろうよ。
誰でもいいから、ここへやってきて尻をぶっ叩いてくれはしないかね?賃金も出そう。
愛情も注ごう。
つぶらな瞳で見上げてあげてもいい。
誰かけつをぶっ叩いてくれ。
これはまさしく本田圭佑が頭両サイド刈り上げるときに使ったバリカンに付着した細かな金の毛髪のようなひと時である。
そういえば既に私が出生し22年の月日が流れたそうな。
あと数ヶ月もすれば23年もの間我が身の細胞を保存し続けたことになる。
多くの人間がこれを成し遂げているが、
しかしまあ、これは誠に偉大なことなのだ。
人は出生し23年が経とうとも、極めて不完全なままなのである。時よりそのような確固たる実感を抱くことがある。
しかしながらというか、
やはりというべきか、
人間は少年を忘れてはいけないのだろう。
いや、そうではなかろうか。
保育園に私を迎えに来た爺ちゃんのカツラを見た友人に対して
あれは、毛髪ではなく毛でできた帽子である。と教授し
爺ちゃんにトイレに1時間閉じ込められた記憶を忘れてはいけない。
「100回謝まりなさい」
と言われ、トイレの中で本当に100かいごめんなさいと謝った5歳の記憶を。
共同を教わった。
5歳のクリスマス当日。
枕元に置いてあるプレゼントに歓喜する私。
サンタさん来た!うれしい!
など知識と教養のないできの悪い子であった私はそのような戯言ことを爺ちゃんの前で豪語してしまったのだ。
なんとも人間味があり、誠優れた爺ちゃんは愛する孫がサンタなどと言う架空のキャラクターに信仰を抱いてしまったこを哀れんだのか、はたまた嫉妬を抱いたのか、今となってはわからないが
"サンタさんはじいちゃんや"
5歳である私に爺ちゃんはそう言ったのである。
サンタさんはじいちゃんや
じいちゃんはサンタさんなんや
爺ちゃんがサンタなのか。
正味5歳でサンタという概念に理解を示した子共は世界でもほんの一握りでろう。
小学校一年生なんかみんなサンタを信じいているものだ。じいちゃんがサンタだみたいなことをいっている小一はいじめられてもおかしくない。
そこからというもの私の人生は変わったしまったように思える。
道徳を教わった。
忘れてはいけない。
家から脱走し、その後隣家で保護され帰還した、家で飼育していたミドリ亀の甲羅の端にキリで穴を開け、
ナイロン製の紐を穴に結び、まるでイヌが散歩に行く時付けるリードのように、庭のデッキの柱に亀をくくりつけていたあの爺ちゃんの姿を。
適応を教わった。
さて、そろそろ時間である。
周囲に意識を向けると、なんだか皆頑張っているような気がしてくる。
そして4月末にしては少し寒すぎやしないか?
皆のことを応援しているし、私もうかうかはしていられない。
どうぶつを檻に閉じ込めてはいけない。
あとは熱盛りスイッチ調達を吟味するだけである。
どうぶつの檻
アデュ