チェリーブロッサム。

最近頭悪いシーズンに突入した。

時が解決する問題だと思っている。そう信じたい。

 


桜が開花し始めたが私は桜が大好きだと思ったことがないし、桜が大好きだと言ったこともない。だからきっと大好きではないのだろう。

 


日本人としては桜が大好きだというべきなのだろうとは思っている。しかし桜はきっと桜のままなのだろう。そうも考えられる。

 


私はナスが大好きだ。

しかしナスが大好きだといい始めたのはつい最近の話だし、キングヌーも最近勢いに乗っている。私には中二のころ友人と教室の後ろの黒板に 

 


ナスの触感がきらい!!

 


と差別的な落書きをして先生になぜこのようなことしたのかと激怒された経験がある。

ナスはおそらくナスのままなのだろうし、考えられるのは私自身が変わったのではないかということだ。人はナスや桜と違い変化している。地球上に最強の文明を築き上げた最強の生物なのだからそれくらいできて当然である。

 


桜は薄ピンク色である。いわゆるマジョリティのアンチを受け付けにくく、花として中立な立場をとっている。

長谷部もまた日本代表のキャプテンだった。

ブラジル代表のキャプテンはネイマールである。つまりそういうことなのである。

ネイマールは観客をぶんなぐってダニエウ・アウヴェスにその座を譲ることとなったわけだし、やはり中立的であることは重要なのだ。

端的に大古からこの国に潜在するジャパニーズスピリッツの的を射抜いている。そう思う。

 


桜は群生する。人間は群生したものが好きである。

星も、夜景も、キャビアも、マングローブの森も単品では人を引き付けることはできない。ちなみに寺田こ〇ろ君、彼は群生し損ねたのだ。人々は群生したこ〇ろ君を見たかったに決まっている。

 


そして桜は散る。いや桜が散ることはどうでもいい。人間はは散るものや消え去るものを詩的に表現したがるし、芸術的なニュアンスを添加することにはちょうどいい。

桜が一年中咲いていてもどこかうっとうしいし、散ってくれたことで助かっている人も多いと思う。

四季を象徴する自然現象でも、孵化したバッタを例にとるよりも散っている桜を例に挙げたほうが、かっこいい感じになる。

 


男を愛するよりも女を愛するほうが退屈ではなかった。

 


ある男性の哲学者がこんなことを言ったらしい。こんな風に当たり前のことを少しかっこつけて言うことで哲学者としての体裁を保っていたりもする。

 

 

 

 


あと桜は英語でチェリーブロッサムというらしい。ブロッサムとは木に咲く花のことを意味するらしいのだが、結構好きである。チェリーというのは気に食わない。

 

 

おそらく前記した理由などにより桜は大衆に好かれているのだと考察した。

 


私は桜を嫌いなわけでない。

桜の子房であるさくらんぼの、ンボという響きも好きだし、バラ科に属しているところも気に入っている。

そして桜のことが大好きな人も好きである。

 


ナス同様、私は桜のことを好きになろうと思い始めているのだ。いいや、なるべきなのだ。これは人間の進化の過程である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただグリンピースのことを好きになる気は全くない。

 


中2の時、教室の黒板に

グリンピースの存在が許せない!と落書きしておくべきだった。

 

 

 

 

 

 

アデゅる