三四郎小宮を称賛する文書の正しい書き方。

皆もよくある事だとは思うのだが春先になると三四郎小宮についつの記事を唐突に書きたくなる。

 

 

 

私は三四郎小宮のファンである。

 

 

 

ファンの定義はよくわからないが、ファンである。彼がでている動画を一昔前に流行ったclipboxというアプリににダウンロードしていたりもする。

 


彼は出川や狩野栄光などと一緒くたにされポンコツ天才芸人扱われているが、私はそれは間違っていると言いたい。そんな気がする。

出川や狩野栄光とは違い、

彼の作り出す笑いには、何か。

思索することでしか得られようのない、いわば必死に掴み取ったようななにかを感じられるからである。よく考えこまれているのだ。

 

彼は天才ではなく、努力の人だとなんかの記事で読んだ記憶がある。

 


私から見れば当たり前の笑い、どちらかというと不可のない及第点のような笑いをコンスタントに叩き出すことに長け、そこに浸かりつづけているような大御所芸人よりも、彼の作り出す笑いのほうが遥か自身の情緒を刺激されることが多いように思える。

 


私は笑いにはストイックであると自負がある。いや、漫才を研究したりはしていないし、あくまでも笑いに妥協がないという意味で。自分のことは棚にあげているわけだが。それはあまり気にしなくていい。あくまでも外界から降り注ぐ笑いの話である。

 


面白くない事象に目を向けたり、それに対しいわゆる愛想笑いを振りまくことなどは疲れるし、やはり無駄なことのように思える。これは世の常識ではないだろうか。

 


80年くらいしか生きないのだから、それらを構成する時間は有用で特別なものでなければならないと考えている。

よりいい時を過ごし、人生のいわゆるおもろい時間の比率を増やしていくことが重要なのだろう。

しかしそれらを実現するにはやはり、精査することが必要なのだ。

つまり面白くないものは受け付けない、つまらぬ事象と化す前の段階でその芽を積みとらねばならない。

そういった能力を習得しなければならないのだ。そう思う。

なんだか今日はいつにも増して偉そうな口調である。だが許してほしい。

 

 

 

話を戻すが、小宮がすごい。

いや小宮さんがすごい。

 


そもそも彼の思想は閉じた体系を作ることを目指していない。未定義のままでも実感に裏打ちされた言葉を繰り返し使用していく。

 


彼の作る漫才のツッコミには以下のようなものがある。

 


・俺はヒカキンじゃねえよ、しらけるわぁ

 


・怒られた時の体が硬い、柔らかくあれ

 


・バチボコ(過多・過大・打ち消しの推量などを表現した言葉)

 


・うるせえたわけ

 


・鼻爆発して死ね

 


・ジャガイモ芸人が美学こいてんじゃねえ

 


五臓六腑を蝕まれろ

 


・アル中であれ

 


彼は自分が松本人志よりも優れている部分があるとすれば、それは品性だと言っていた。 

 


オーソドックスな流れには沿っているものの、やはりそういった自負が鼻につかないほどには、彼の作りだすネタやワードセンスには、品性や言葉を超えた芸術性のような物を感じられる。

 


〜であれ。

 


これに関してはボケ、ツッコミというお笑いの根底にある概念をも覆し兼ねない、いわば大発明なのではないかとすら感じている。

 


これからも私の人生の時間を良きものにしてほしい。期待している。

 

 

 

 


ただ小宮を褒めた記事であった。

こんなのを最後まで読みきったしまった読者の方々への同情は計り知れない。

しかしながら、これを機に彼の作り出す世界を全身で思う存分味わってみてほしい。

そう思う。

 

 

 

明日はグリンピースの悪口をひたすらに書き綴ってみようと思う。

いままでで一番期待値の高い企画ではないだろうか。

 

在宅ワークのせいで視力が落ちた気がする。

 

 

アデュ