シャンプープロカリテ。

シャンプーをご存知だろうか。
シャンプーと聞くと以前私が学内の知人に一発ギャグの考案を依頼した時の話を思い出す。
上記した彼は根本的に、いや見るからに嘘をつくタイプの人間であったため常日頃から彼と接する際にはいちいち彼の言動に対して訝しく感じることが多くあり、たとえ彼が限りなく真実を述べていようとも、私としてはいやむしろ虚言であってくれないかね??と内心考え始めるほどに彼はいわゆる胡散臭い男であったのだ。


読者の皆様方は有名なイソップ寓話の狼少年(嘘をつく少年)の話はご存知だろうか?

知らない人はこの際なので調べてみてください。ここでは狼少年の話は割愛させてもらう。

 

狼少年の話は非常によくできた話だと私は感じている。
常日頃から嘘を付いていれば信用を失うことになるといった世の摂理を理解することは小学2年生の子供程度の学力をもってすれば誠に簡単なことである。狼少年の話からそのようないわゆる当たり前な教養を得ることはことは全く重要なことではない。

私が狼少年の話を読み解き文学的に趣があると考えている点は、実際に狼が街を襲撃してきた際、狼少年は真実を述べていた。という事実である。
つまりはこうである。
狼少年は嘘を付いた。嘘はよくない。犯罪にだってなり得るのだ。
しかしながら狼少年は子供であり、(狼少年本人が狼に食われる話とその残虐さゆえに街の羊が食われる話とがあるのだが)、嘘を付いた子供だろうと羊であろうとその命が失われた最大の責任は大人にあるのではないか。と考えているのだ。
ただ日常の平和に酔っていた剽軽な子供はたわいもない冗談に“狼が来た”という街におけるご禁句ワードを2・3回程度用いてしまっただけなのだ。子供ならよくあることではないか。彼のチョイスが世間でいうところのいわゆる“マジでシャレにならんパターンのやつ”であっただけなのである。
当話を用いて「嘘をつくのはいけません」などと自らの教育論を輝ける未来を持った子供達に擦り込もうなどと考えている教師を見かけたならば私に連絡してきてほしい。つまらな過ぎて鼻くそを飛ばしてやりたい。

 

少年の話を最後まで信用せずに狼から子供及び羊の尊い命を守れなかった大人にスポットは当てられるべきではないか。そう思うのだ。
“大人をからかっている子供“ と
“街はずれで見かけた狼に怯えそれを必死に伝えようとる子供“
の表情の差異に気づかない程度の愚鈍な大人であるのだから。
その町には狼が襲撃にくる可能性を認知しておきながら、狼が襲撃してきた際それらを撃退するためのシステムをイノベーションしていなかった怠惰な大人であるのだから。・・・・・

 

 

なにやら気づけば偉大な寓話に難癖をつけ、反抗期の子供のような文を綴ってしまっているではないか。

遺憾である。


要するに私が言いたかったのは、狼少年は最後の一回は真実を述べていたが、前述している私の知人とは狼が街に現れたとしても、その日の部活のをサボる為の嘘を思索し続けるような男であるということである。

彼には何か新しいギャグを試作してもらうよう委託してあったわけだが、
彼が試作したというギャグの題名こそが『シャンプープロカリテ』である。
内容はと言えば、リズムに合わせ
シャンプーをプロカリテ
シャンプーシャンプー
シャンシャンプ シャンプー(以下省略)などと熱唱する類の物であった。


非常に訝しく思った。


私はこの手のいわゆる聞き手の理解を凌駕する不可解なワードないし内容で構成されたネタは嫌いではないのだが、残念ながら彼にはこのような気の利いたネタを試作できるほどのセンスはないと思断っていたからである。

 

私は彼がつく嘘ならば全て見抜けてしまうほどに彼に熱中していたということにしておこう。


Googleにてシャンプープロカリテで検索すると8流ミュージシャン崩れのようなサラサラヘアーの男がシャンプープロカリテという題名の歌を歌っている動画がYouTubeに挙げられていることが分かった。


簡単なことである。

盗作だったのだ。 

 

嘘つき少年(19歳)の剃り残ったもみあげや髭には何やら汗がにじんでいる。奇妙である。

 

しかし私は幻滅などしてはいなかった、
私はイソップ寓話にでてくる大人とは違い、狼少年も羊も死なせたりはしない。
彼を信じ続けたのだ。
なぜなら私の学生時代を語る上で彼の存在はなくてはならない。そう思っているからである。
またいつか彼についての寓話でも書こうと思う。


さて私の出身地は温泉県などと自負していることもあり多少なりとも温泉とは縁があるのだが、そこで一つ問題になるのが温泉に設置されているシャンプーの組成である。何故か知らないが、温泉に設置されているシャンプーは
いわゆるつけた瞬間わかるキューティクルが粉砕されるやつタイプのものが8割以上占めているため、我が故郷の出身である民達は皆温泉に設置されてあるシャンプーの中身はボディソープなのではないかと疑心暗鬼になりながら生活を送っているのである。


このシャンプーを作ろうと思った人がいて、このシャンプーを作った人はよくぞまあこのシャンプーをシャンプーとして世に放ったなと。 誠こういうレベルなのである。 


昨日渡航した温泉地でも同様の現象が起き、私のキューティクルらは

"ハゲた老人のデザインがパッケージされたシャンプー"

にて壊滅させられたわけだ。 

まさにキューティクルの終わり。
なんとも不思議な現象が起こったのはその翌日の話である。


なんとこのハゲじじいのシャンプーがお土産売り場に1500円で販売されていたのである。1500円と言ったらスーパー市場でいうところの高級シャンプーではないか。

 

 

私は大きな勘違いをしていたのであろうか。

 


起きた刹那消えていく夢のようである。

 

 

キューティクルは実は死んでいなかったのではないか。 


セブルススネイプを失ったハリーポッターのようなものではないのか。

そのような疑問を抱きつつあるのだ。
 

シャンプーパッケージのハゲた爺さんは優しい顔で微笑んでいる。
まるで私の何かを守ってくれているかのように。

 

キューティクルなどあるはずも無い、髪がないのだから、
そんな爺さんが優しい顔で微笑んでいる。


これは遠い将来我々が髪を失うという危機に直面する時の予感である。
キューティクルなどという目先の利益よりも、髪という大資本そのものを守ってくれるシャンプーだったのではないか。

 


温泉県か。

 

 

物の見方を変える必要がある。

 

 

 


しかしながら私の毛髪は昨日のシャンプーのせいでギシギシであり

今はそれどころではない。    

 

 

 

 

 

 

 

 


この話、実はオチがない。 
というかオチの付け所がない。

シャンプーが題材なのだから致し方ないことなのである。
オチがある話をただ書き綴っているわけではなく、内容のない話に無理やりオチを設けるが私の手腕であるため、このような重大な事実にすら書き終えて初めて気づくのだ。

 

負け戦である。 

しかしながら負け戦だと分かっていても戦うことだってあるのだよ。

大人はね。

 


長くなってしまった。遺憾である。

 

今宵もご精読ありがとうございました。
あでゅ

三日スキンヘッドの優位性。

ブログを書き始めはや3日が経った。気分はいい。視界も良好である。足も臭くない。

実は昨日友人から投稿を心待ちにしているとの賞賛の声を頂いた。

いつか本を出してほしいとのLINEも頂いた。

いや嘘ではない。この事実はひたすらにただ嬉しい。

足が臭くなるはずがないのである。

 


私はなんといい友人を持った事だろうか。皆のことが大好きである。

 

 

 

ジャイ○ンは言った。「心の友よ」と。

 


『心の友』

 


なかなか良い感性と表現力を持ち合わせたいじめっこではないか。

正味11歳の子供であるにもかかわらず、土管をステージするという創造生。

近所の子供逹が丁度よく収まるサイズの公園をリサイタル会場に選定するというマネジメント力。

数多くの子供逹をリサイタルに招き入れる事のできる人脈及び行動力。

圧倒的歌唱力。

鍛え抜かれた肉体。

がき大将と自負できるまでに卓越し磨き上げられた戦闘技術。

強さを象徴する黒光りする皮膚。

そしてなんといっても、あれほど主人公をいじめてもこのご時世のいわゆるコンプライアンスを掻い潜り、ゴールデンタムから追放される事がないほどに大衆(視聴者)の心を掴むことが出来る人間性

この“人間性“についてはまたいつか話しをするとしよう。

 


付け加えテスト返却日には間違いなく主人公を罵ることが出来るほどには秀才で高い知能を持ち合わせている様に見て伺える。

 


また彼の実家は野菜ビジネスに着手しておりそれに加えて常日頃から金持ちの子分を従えている。つまり経済力においてもこの歳でその才気が垣間見えているのだ。

 


あるエピソードの中では彼の実妹であるJAI子を泣かせた奴は殺すと断言していたこともありそれは端的に彼のそこ知れぬ愛を示しているのだ。

 


「お前のものは俺もの・俺のものは俺のもの」

 


「のび田のくせに生意気だ」

 


このいわゆるジャイアニズムとは彼が提唱したこの世に存在する唯一無二・究極の理論であり、真の強者のみが発言を許されものである。

これらの有名なある種の元も子もない差別的・エゴイズム的言動には彼の壮絶な生い立ちが関係しており、社会的地位や厳格な階級性が存在することは容易に想像ができる。

 

 

 

 

 

 

 

やはり女として生きているのであればこの様な男になら抱かれてみたいと思うものなのだろうか。

 

 

 

 

さて努力しない三日坊主のメガネの少年は今直ぐにでも自身の立場を省みる必要があるのではないのか。努力もしない人間が主人公だからといってヒロインの心を射止める事ができると思ったら大間違いである。世の中はそれほど甘くはないのだよ。

うん、少し厳しいことを言いすぎた気がする。すまない。

実を言うと私はのび田のことが大好きである。小学生の頃から私は彼の検討を祈っている。

やはり国民的アニメの主人公が大学生になった途端、いやあるいは高校に進学する頃には、“し○かちゃん“はジャイ○ンの様な優秀な男に”静かでないし○か“にされる様を指をくわえ観ておくことしか出来ないのはなんとも心苦しいではないか。

 


*ちなみにのび田が主人公である様に前記してあるが、正直なところドラえ者とのび田どちらが主人公であるかその様な知識は持ち合わせていない。知見がある方は出てきてほしい。カンバセーションしよう。

 


フェリス・シルヴェストリス・カトゥス型自動機械(猫型ロボット)系アニメのキャラクターの話をしたかったわけではないのだ。

ブログ3日目という事実に付随させいわゆる三日坊主の話しをするつもりだったのである。しかしながら、ここは私の世界である。

我が術中。

そう三日坊主を象徴する国民的アニメの主人公の話で取りまとめたことで

今回の主題へと紐づけたのである。

この展開には私も驚いた。

 


しかしながら今から三日坊主の話を書くとなると少々体力を要することになるわけだ。ただそれは読者の皆様にも言えることなので、ここからは私のことを愛して止まない人だけのために書こうと思う。読んでくれると嬉しい。

 


どうやら三日坊主とは厳密に72時間とあることを継続出来なかった人のことを指すわけではないらしい。つまりここでいう3日とは、短い時期と言う意味であり私が4日目のブログを更新したからといって私は三日坊主ではないのである。なんて記事を書き残す事が出来ないということなのだろう。

ナンセンスである。(non sensu)

3日という時間を揶揄として用いただけで、定義化していないのだ。

これならばイチローに向かって三日坊主め。などと叫んでいる金髪のホストを町で見かけたとしても、背後からラリアットやジャンピング・ニーをかますことはできない。

 


そこで私の言うところの三日坊主とは、何かを始め3日間継続できたか否か、といった明確な基準を定義しようと思う。きっとそのほうが良いに決まっているのだ。

『あなたは三日坊主ね』と言われると基本的にはネガテブな意味として受け取られる様であるが。

私はこういう「冷酷なる」表現にも良いとことがあると考え始めている。

 


22年もこの世を生き抜いてきた私に言わせれば、三日坊主とは誠に優れている事なのだ。

 


3日も何かを継続しようと志していたのだから。

 


この世で3日継続することがどれほど困難であることか。 

 


そして彼らは坊主なのだ。

 


ああなんと可愛らしいことか。

 


三日坊主と罵られ悩んでいるそこのあなた。三日坊主と自覚があるのにも関わらず三日坊主であり続けるそこのあなた。

坊主になり3日目のあなた。

落ち込む必要などない。私が保証しよう。

君達は素晴らしい。

3日に満たないまでも自ら行動したのだ。

羽ばたく方向を多少見誤っただけの話である。ジャンルを変えれば良い。

三日坊主になり続ければいい。きっと良くなる。

ぜひ志を持ち続け、また様々なことに挑戦し励み続けてほしい。

本当にそう心から願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし最後に一つ重要なことを書き残しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“物事は長く続けるに越したことはないのである”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


付け加えて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


“三日坊主はクズである”

 

 

 

 


“スネ男と出来過くん以外は基本的にクズである”

 

 

 

 

 

 

以上、今宵もご精読ありがとうございました。おやすみなさい。

アデュ

100mを5秒で走る男。

~かくの如く人生は、たった一つの小さな歯車が外れたばかりにとんでもない事件が起こる事がある。戦争も大事件も必ずしも高尚な動機や思想的対立から起こるのではなくほんのちょっとした間違いから十分起こりうるのだと。

そして大思想や大哲学は概して大した事件も引き起こさずにカビが生えたまま死んでしまうのだと。

昨今読んだ本に書いてあった気がするのだが、これはまさしくその通りなのだ。

 


誠に書く事もございませんので

 


私が中学二年生(人生の転換期)のある何気無い一日の記憶の話をしよう。

 


私が思うに中学二年生とは、世界で最も巨大なポテンシャルを持った集団でありながらそのポテンシャルをやっとのこと生えて来たち◯毛とごちゃ混ぜにして銀行ATMの現金取り出口しに突っ込んで詰まらせてしまうような連中である。(これは揶揄であるが、実際にそう言った事をしる奴もいたかもしれない)

当時の彼らは、

受験勉強が大変であると嘆きエロい事を考えていた。

生徒会に入り浸り学校改革をしようなどと偉そうな事を抜かしエロい事を考えていた。

部活で全国大会出場を目指しエロい事を考えていた。

起立・気をつけ・エロい事を考えていた。

 


そして当時彼らの中で大流行したのがいわゆる“恋愛”“お付き合い”なるものだ。

これに関しては男子である私の意見を言わせてもらうと、

 


85%女子の陰謀によるもの

 


であると考えている。間違いない。全ての巨悪の根源である。まっ違いない。

私の性別は男につき、当時の女子が何を考えていたか当分検討がつくはずはないが、当時のエロくそガキ達のそう言ったマインドに女子が限りなく搾取した形となっていたのは明白なのだ。当時賢いタイプのくそガキだった私には手に取るようにわかる。

と言っても彼らが青春などと豪語するそれは、廊下ですれ違うたび気まずさを感じ、それでも努力により二人きりで家まで歩いて帰り、余程世間離れしたガキ以外はそれ以上の進展に期待などなかったのであろうけども。いくら妄想を洗練させたところで、それを実行できるほどに彼らは完全な存在ではなかったのだ。

おママごとRev,2といったところか。(かわいらしいものであったという表現なのでこれを読んでも気を害さないでほしい)

 


中学二年生の性質についてはどうでもいいので一旦ここまででいいや。

 


話を戻し、私の記憶の話を。

理不尽を学んだのである。恐怖を知るのである。

のちに私の大親友となるAくん。彼もまた、賢いタイプのくそガキだった事に違いないが、私との大きな違いといえば、筋力量が私より多い事と脳から筋肉へと伝達される信号の通信速度である。いかんせん成長期につき生物としての個体差が生まれてしまうのである。

 


いたずら好きのAくんは当時、私の靴をいわゆる青春おママごとパートナーの靴箱に入れるといういたずらを思い付いたらしく、数回にわたり私の靴を隠し、鬼の首を取って来てそれを使ってセパタクローでもする気なのか??とでもいわんテンションで奇声さながらのわらい声をあげるのであった。

 


いわゆる“電柱に激突する蝉”のような男である。

 


私も人間である。そうなると必然的に、Aくんの靴をAくんの当時のパートナーの靴箱に隠す事になるわけだ。やり返してやったのだよ。

 


戦争だって些細な、小さな歯車が外れたばかりに起きてしまうのさ。

 


朝学校に着き教室の扉を開けると、すでに席についていたAくんはでかい音を立て(蝉はでかい音を立てがち)席から立ち上がると、あれは当時ウサインボルトが100mを9、何秒か。世界記録を出したなど世間が騒ぎ立てていた頃だったか。

私が目の当たりにしたそれは、ウサインどころの話でははく、道路を横断するイタチどころの話ではなく、

100mを5秒くらいで走りきるほどの速度で私に近づいてくるAくんであった。仮にもここは教室なのだぞ。

 

 

 

恐怖を感じた。そこからのことはよく覚えていない。

 

 

 

Aくんは私の学ランを鷲掴みにすると、黒板の下(チョークの粉が散らばっている。いわゆる教室で一番汚い床)に投げ飛ばした。

 

 

 

恐怖を感じた。そこからのことはよく覚えていない。

 

 

 

Aくんは何やら倒れている私の手を掴んで小指の爪をどうこうしたかったらしい。

 

 

 

恐怖を感じた。そこからのことはよく覚えていない。

 

 

 

そうだ。  

小指の爪の根元を潰されたのだ。

 

 

 

究極的に地味であること。地味に鈍い痛みを感じること。

そう、この爪の根本の鈍い痛みと内出血の青紫色こそがあの、青春という不確かで不安定な存在の正体だったのだ。

 


確かその時Aくんは『あれをやったのは俺じゃね!!!』と叫んでいたっけ。

わからなかった。A君でなく違う学生が実行犯であったとして、なぜ私がA

くんの靴を隠したと確信していたのか??

まあ、それはいい。理解することが必ずしも重要ではない。

後に聞くと、アメトークで手の指の爪の根元を潰すのが一番痛いとある芸人が言っていてその暗殺術を試して見たかったのだとか。

たかが、中二のくそガキの小指の爪が内出血を起こしただけのことである。

 

 

 

理不尽を学んだのである。  

この世の性を理解したのである。

 

 

 

100mを5秒で走る男を私は知っているのだ。

 


寝よう。

アデュ

阿呆の進行は勢いを増して。

 

阿呆の進行は勢いを増して。
私はとうとう後天的知能低下の進行を死守すべく身を講じたのだ。
その日はやって来る。
ブログを書くことにした。


・ これは一見すると車に跳ねられたイタチが何食わぬ顔をして道路を25km/hの速度で横断していってしまった時のようなものである。

 

・ これは『本田圭佑は世界最高のドリブラーだ』と賞賛したジャーナリストの妻の浮気のようなものである。

 

実は、25分粘ってもこの程度の表現しか出て来ないほどに私が言うところの阿保の進行とは深刻なものなのだ。これ以上くだらないことに時間を割くのは辞めよう。足の臭気を感じるからである。


さて私には質より量・量より質で言うところの量より質風な友人が多くいると自負しているわけだ。(ここで言う多いとは無論母数ではなく母数に対する子数の比率のことである)
そんな友人らの中には私がいたずらに発信する文章に趣を感じ取ってくれている方が多少なりともいるらしい。
いや嘘ではない。本当の話だと信じている。
そんな彼らの期待には応えられるよう努力して書こうと思う。
彼らの事については後後書いていくことにする。
しかしブログなどと大それた事をぬかそうが、これに関しては日記以下でも日記以上にも成り得る気がしていない。執拗以上な知識も何か有益な情報であったりノウハウ性のあるような物をはなっから持ち合わせていないからである。

そこで書くに当たっての最低限のモラルを遵守することをここに誓っておこう。
上記したモラルとは、ひとえに読者皆様の気を害さないよう努めることである。
つまりはチャーハンを食ったからと言ってチャーハンを食ってきたなどという惰性的な発進をしたりはしない。

Amazonで買った新しいマウスの紹介をしたりもしない。
グリンピースの悪口を言ったりしない。

 

 


気になる方のためにブログ名称について話しておこう。
エレファントマンドリルという呼称に深い意味などない。決してない。
たまたま部屋の冷蔵庫にタイ土産の象(elephant)のマグネットが貼ってあったのだ。それが目に入った。うん。そこにマンドリル(Mandrill)をそえただけのこと。

もう一度言うが深い意味など決してないのだ。

 

ブログ名称に意味を持たせようとする奴とハードワックスを付けている教師なんかはきっと、いやほぼ確実に変態である。

 

きっとね。

 

こだわりなど微塵もないのでセンスのいい名称があればだれか出てきて提言してくれると嬉しい。結婚しよう。

 

もうそろそろ終わろう。初回だしな。
実を言うともう書く事がない。初回ダシナ

やや堅苦しくなってしまってはいるものの。初回dashina

 

慣れていないことを実行してみるにあたり、やはり本格的にケツが痛い。こういう風潮はギリシアのコリントのヴィーナス神殿にもあった。。

 

それではご精読ありがとうごあいました。
以後お見知り置きを。
アデュ