つくね、熱くね。
チーズが入っている気がし始めると良くないという話。
まず私が文字を綴っているということは、
今日の給食がグリーンピースご飯だと分かった1限目の授業の様なものである。
シュレティンガ-の猫の様な体験をした。
シュレティンが-の猫とは、1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた、猫を使った思考実験のことである。
長くなりすぎるので、これ以上シュレティンガ-の猫の内容には触れないが、そこそこ面白いので興味があれば調べてみるといい。
居酒屋で無駄にでかい(ど太い)、主観的な話ではあるが、それは明らかに私がこれまでに食べた一般的なつくね串を基準にした場合にでかすぎるつくねが出されたのである。
わたしは、ふと
ああ、このつくねの中にはチーズが入っているのだなと感じた。
私のセンスからすれば
チーズが入っていると思わずにはいられないほどでかいつくねだったのだから、
チーズが入っている気がしたのである。
むしろチーズが入っていないのであれば一体なぜこんなにもど太くする理由があるのだろうかと。
とはいえ結果的につくねの中にチーズは入っていなかった。
ただでかいだけのつくね串であった。
私はその事実に非常に動揺し、その様子を誰かに見られたりしたのではないのか、
この一連の心理模様を誰かに悟られてしまったのではないかと恐怖を感じ、
回りを見渡すことすらできなかった。
私の斜め前に座って楽しそうに食事している同僚も、
おや、こいつはおそらくたった今、
このど太いつくねの中にはチーズが入っていると思っていたのだろう。
そうに違いない、そしてそれは誠センスの無いものであり、結果中にチーズ等入ってはいなかった。
くっくっく。この助平な阿呆め。
などと思ったに違いない。きっとそうである。
なんと恐ろしいことだろうか。
わたしの口につくね串が入る刹那まで、つくねの中にチーズが存在するか否かを証明する術はない。つくねを焼いた居酒屋のおっさんにだってそれらを証明することはできないのだ。
そのような意味でこれはシュレティンガーの猫なのである。
いやいや、いくらど太いつくねだろうが、はなくからチーズなんてものは入っていないのだよ、などと思っていばいれいではないか。と思う方もいるだろう。
が、これはそんな生易しい話ではないのだ。
認識を無かったことにすることはできない。
象さんのことを考えるなと言われて、象さんのことを考えない人間はいない。(映画インセプションより)
私は今後、つくねを食べる度この恐怖と対峙する必要がでてきてしまったのだ。
ああ、このつくねにはチーズが入っているかもしれない。
いや、そうではないかもしれない。
一連の心理模様を他人に悟られてはならない。
これほど羞恥的で恐ろしい事はないのである。
平然と、ただつくね串を味わっている女子大生とか橋本環奈とかおっさんとか堺雅人の様な表情と感情を再現する必要がある。とても恐ろしい現実である。
私の執筆した記事に愛情を感じていたり、わざわざ読みに足を運んでくれた方々についても、この記事を読んでしまった以上同様の恐怖に見舞われるに違いない。
巻き込んでしまい大変遺憾である。許してほしい。
でかいつくね、
チーズ入っとけよ。
どうでもいいが、
つくね串にはウズラの卵黄を付け合わせだほうが良いのではないだろうか。
その方が精神的にいいに決まっているのだ。